年末までは「年賀状」印刷でとても忙しく、なかなか日記を書く時間もありませんでした。それと、平成三年に発売した『ふるさと子供グラフティ』を6増刷(6万冊)していましたが、ほとんど在庫がなくなり、7増刷をしようかと思いましたが、当時はただ一気に体験思い出を描いたので、後になってみるとあちこち自分でも恥ずかしい様な絵や文章でした。そこで『新装版』を作り直すことにしました。だから、正月も何もあったものではなかったのです。「ふるさと子供新聞」の読者の皆様にも今しばらくごめんなさい。さらに1月はまたまたいろんな仕事や、遊び指導などで分刻みでした。
そんな中ついに今日(2月22日発売)やっと新装版を売り出します。今日2月6日、完全データ化したのを印刷所(熊本県の下田印刷株式会社)に出稿しました。皆様よろしくご購読をお願いします。
ところで私にとって人生観までが変わった、第1作「グラフティ」の思い出を書いてみます。
平成三年五月五日(こどもの日)に『ふるさと子供グラフティ』を発刊(自費出版)しました。文章、絵、編集レイアウト、写真植字、版下まですべて一人でして、「完全版下」で印刷所にたのんで印刷、製本をしたものです。
私がちょうど四十歳の時です。すると、知人や色々な方々の口コミで自分でも驚くような反響とともに、どんどん広がっていきました。そして、本を購読された方々からよく「あなたは何歳ですか。」と聞かれ、「四十歳です」と答えると、「えっ、てっきり六十歳以上だと思いました。若い割にはよく昔のことを知っていますね。相当調べたでしょう」。 「いえいえ、すべて私の実体験だけです。でなければ楽しかったことが表現できません」。 「でも、あなたが四十歳ならつい最近の事じゃないですか?」
「はあ、私のふるさとはよそより随分遅くまで、まるで時計が止まっていたような長閑(のどか)なところだったのです」と実感を言っていました。
その年の師走、熊日新聞紙上で「出版文化賞」のことと本年の作品応募締切が迫っていることを知りましたが、私はただ読み過ごしました。ところが妻(真知子)は、「応募しましょうよ」と言うのです。私は「こんな本が、取れるような賞じゃないよ。今まで町史とか歴史書などものすごい重厚な本ばかりのようだよ」。 「いいえ、私は絶対取れる気がする。どこに行けばいいのかしら?」。 「本気ね? 確か世安じゃないかな。」「世安ってどこ? 私分からないからあなたが行ってよ。」 「いやだよ、どうせ、そんなの取れるはずはないし、きみがタクシーででも行ってきたら。」と言いますと、「そうね。じゃあ、明日私が持って行くわ」と言って、翌日さっさと応募してきたのです。帰ってくるなり「きっと入賞するわ。受け付けてくれた文化部の方や近くにいた人達がみんな集まってきて『ワーこれはすごい本だ』と大絶賛だったのよ」と、もう受賞した気分でいました。
熊日出版文化賞とは、その年に熊本県内で書籍等の出版・刊行され、応募された作品を、主に県内の文化・学識者による審査委員の方々が最終的に「三作品」が決定されるものです。
平成四年一月、熊日関係者による「第一次選考」が行われ、二十点がノミネートされたのが朝刊に発表され、その中の一つに私の本も入っていました。それを見るなり妻は「ほら見てごらんなさいよ。やっぱり受賞するわよ」と言ったのですが、私は「異色だから、選ばれるかなとぼくも思っていたよ。しかし、三点にはならないさ」。
「じゃー、賭けましょうか? もし入賞したら副賞は十五万円だから全部私がもらうわよ」。 「あー、いいよ、いいよ」と笑っていました。
最終審査の日がやって来ました。『受賞者には熊日の方から直接お知らせします』とのことだったので、妻はそわそわしていましたが、私はほとんど期待せず普段のように夕方を迎え、一階が事務所で二階が住居なのですが、もう仕事もやめて二階へ上がり、いつものように晩酌でもしていたとき、突然電話がかかってきました。
妻は「ほら来た。熊日さんからよ」と電話をとりました。私は「まさか」と笑いました。妻は電話で「はい、おります。ありがとうございます。いま代わります」と、受話器を持って「やっぱり受賞したのよ」と興奮しています。私が電話を代わると「原賀さんですか。本日第十三回出版文化賞に決定いたしましたのでお知らせいたします。」「ほんとうですか。あ、ありがとうございます」。「明日の朝刊に受賞者の言葉として掲載いたしますので、ご感想をお願いします」。「えっ、あ、いやびっくりしています」。その後少し落ちついて今の気持ちを伝えました。翌日、熊日朝刊第一面に受賞した四作品の写真入りで大きく載っていました。
平成四年(一九九二)二月十七日(上通の)熊本日日新聞本社ビル社長室で、第十三回出版文化賞授賞式が行われました。その年の受賞は私の「ふるさと子供グラフティ」と他に三作品でした。例年三作品だったのですが、最終審査の時点でどうしても私の作品が捨てがたく?異例の四作品となったとのこと。私達は夫婦で出席しました。というのは著者が私で、クリエイトノア自費出版の発行責任者は妻真知子だったからです。
熊日社長・永野光哉氏より四組の受賞者に次々と表彰状と副賞(十五万円)が贈られ、その後それぞれ受賞者の挨拶。...私の番がきました。
「この度は、全く予期もしない大きな賞を賜り誠にありがとうございました。私は子供の頃から大変本が好きで色んな本を読んで人生の糧としてきました。だから自らも本や色んな文字媒体を作る印刷業をしています。そして子供の頃から本好きで多くの本を読むことが出来たのも、実は熊日新聞社様のおかげです。それは小学校四年生から中学三年まで新聞配達をさせて貰い、その給料のほとんどが漫画などの本代になったからです。それらの本のおかげで色んな知識を得て、思いっきり遊んだ体験談を本にしたものがこのように名誉ある賞まで賜り、私の人生においてこの上ない感謝の気持ちで一杯です。また幼い頃より両親がよく『新聞に載るような偉い人間にならんとでけん』と言っていましたので、今回の受賞で両親には大きな親孝行が出来ました。熊日新聞社並びに審査員の先生かたがたに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。最後に、ハリウッドのアカデミー賞受賞式風に言わせてもらいますが、この本の出版に際し最初から最後まで私のわがままを快く応援してくれた妻に、この賞を捧げます。」
と、お礼の言葉を言いますと、「アカデミー賞...」の部分で、審査員のお一人だった「安永蕗子」先生がクスッと微笑まれたのが目に入り、コチンコチンになっていた肩がすっとほぐれた気分になりました。
その後審査員の先生方と昼食会のため上通りを歩いてホテルキャッスルに向かいました。途中、安永蕗子先生が「原賀さん、私は少し不満よ」。私は「はあ?」と恐る恐る言いますと、「男の子の遊びばかりじゃないの。」と言われるのです。私は「女の子とはほとんど遊んでいなく、描けなかったのです。」というと、先生は「じゃあ今度は奥さんから聞いたりして、女の子の遊びもいっぱい入れた続編を出してよ」と言われ、私はとっさに「はい、そうします」と答えてしまいました。結局この日から丁度一年後に今度はかなり女の子の遊びも入れた第二作「ふるさと子供ウィズダム」を発刊したのです。この時、安永蕗子先生が何も言わなかったら、第二作、第三作へと発刊することはなかったか、もしくはかなり後になったかも知れません。
ホテルキャッスルで懇親会が始まり、食事しながら談笑していますと、田邉哲夫先生が「原賀さんの名前(姓)の由来は知っていますか?」と尋ねられました。「いいえ、元々百姓のようですから、明治の時苗字をつけて良いことになり、『原っぱ』にめでたい『賀』でも付けたんじゃないですか」と言いますと、「とんでもない。原賀という苗字は私が調べたところによると、もともと『ニベ』という有明海にいた『アカ魚』のことで、古くは『腹赤』といい、『ハラアカ』...『ハラーカ』...『ハラカ(ガ)』となったようですよ。それは、『延喜式』に書かれている、正月朝廷に三種(有明海のハラアカ、諏訪湖の氷、伊勢の暦)の貢ぎ物を届ける一つだったのです。諏訪湖の氷の厚さでその年の「冷・暖」を占い、アカ魚で今年の海の漁を占う。暦は当然のもの。ハラアカ(赤魚)を朝廷に届ける役目を任されていたのが「原賀一族」だったようですよ。室町時代にもその名は古文書に残されています。だから今の玉名の腹赤(村)辺りの出身なんだが、いつの頃か、誰か(領主)が、ハラアカを鯛と間違えて大失態をしたことで、あそこから離れたようです。今度、その詳しい資料を送ってあげるから研究してみたら。」と教えられたのです。私は、この瞬間から自分の先祖の血に対し大きな誇りを持ち、何か「原賀」の姓で生きる事へ大きな喜びを感じました。数日後、田邉先生からいろんな資料が送られてきました。
また、審査員のお一人だった西岡鐵夫先生が受賞決定翌日の朝刊で「グラフティ」の書評を書かれました。初版五千部が約三ヶ月で完売し、第二刷りのとき、西岡先生にお電話をしてこのお褒めの言葉(文)を「帯」に使いたいとお願いしますと、先生は即快諾されました。あれから六刷り(四万部)になっていますが今も先生のお褒めの言葉を使わせていただいています。
さらにその祝賀会の帰りに、早速熊日新聞の月一回カラーコラム「わんぱく」という子供の遊びコーナーの仕事を依頼され、一年間連載することになりました。そのように、この熊日新聞社第十三回出版文化賞受賞は、その後の私の人生に大きな影響を与えたのです。それから、熊日新聞を始め、テレビやラジオ、その他のマスコミなどからも多数取材などがあり、昔遊びの実習や講演などにもどんどん出かけるようになりました。
また熊本県庁「県民生活総室」からも「青少年健全育成」などのパンフレットや県内の小中学生八万人へ無料配布された「子供カレンダー」の制作など(すべて私のイラストによるもの)も依頼され、自分で「私の人生はなんでもかんでもどうしてこんなに順調なのか」、今までずっとまるで「くじ」に当たり続けてきたように楽しい人生だったのはなぜなのか不思議でした。
しかしそれは、いつも「自分で考え決断し、行動」してきたからだと思いました。要するに全て「自己判断」と「自己責任・自己成果」主義だからです。その性格を作ったのが子供時代から何でも「遊び心」に変えてきたことだと自分では確信しているのです。
これの続きはまた後に書きます。要は自分の運命は自分で作っていくことが出来ると思っています。