こだわりの雑学の最近のブログ記事

マスコミでは「近年、医療の発展に伴い高齢化が進み...世界一の長寿国になっています」といい、以前、NHKで「江戸時代」は約50歳、と時代を遡るにつれてどんどん短くなり「弥生時代」の平均寿命は2、30歳だった。と(学者?が)『断言』したように言っていました。

 

しかし、なんと邪馬台国の時代はかなりの長寿だったことがちゃんと『魏志倭人伝』に書かれています。その他、礼儀作法や合議、法律・刑罰の類などもあります。

『女王国・邪馬台国』の様子を記録した部分(漢文)を抽出してみました。写真は原本(写本)の一部です。

 

倭人伝1.jpgその一部を簡単に現代風に訳すると、

 

●彼らの会合の場での立ち居振る舞いには、父子や男女の区別がない。

 人々は生まれつき酒が好きである。大人(たいじん)や敬うべき人物に会ったときには、ひざまずいて拝する代わりに拍手(合掌)をする。

 

●人々はおおむね長生きで、百歳、八、九十歳の者が(かなり)いる。その地では一般に大人は四、五人の妻を持ち、下戸(げこ・身分の低い者)でも二、三人の妻を持つ者がいる。婦人たちは身持ちがしっかりとして、嫉妬することもない。

 

●人々は盗みをせず、訴訟ざたは少ないが、法(しきたり・決まり)を犯す者がいると、軽い場合はその妻子を没収し、重い場合には一家一門が根絶やし(すべて処刑)にされる。

 

●部族間の役目関係や、尊卑についてはそれぞれ序列があって、上の者の言いつけはよく守られる。租税や賦役の徴収が行われ、それぞれ、それを収める倉庫が置かれている。

 

(邪馬臺〈音声・ジャマディ­=理想郷〉連邦の)

●国々に市場が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行われて、大倭(たいわ=倭の中のもっとも大きなクニ)がその監督の任に当たっている。

 

●女王国より北の地域には、特別に一大率(軍隊)の官が置かれて、国々を監視し、国々はそれを畏れている。一大率はいつも伊都〈イツ〉国にその役所を置き、国々の間でちょうど中国の刺史のような権威を持っている。

 

●倭王が(魏の)都や帯方郡や韓〈カラ〉の国々へ使者を送る場合、あるいは逆に帯方郡からの使者が倭に遣わされるときには、いつも港で荷物を広げて数目を調べ、送られる文書や賜り物が、女王のもとに届いたときに間違いがないように点検をする。......

 

などと書かれています。

 

卑弥呼時代の方が『民主主義、会議での男女同権、健康長生き、子孫繁栄型大家族、倫理・法律、刑罰、防衛』など今よりずっとしっかりしていたような気がしてしまいます。

 

結局、魏の使節も当時の邪馬台国のしきたり、長寿、防衛、管理体制などにある程度『驚いた』から、ほとんど余裕の無い字数の中にこうしたことをしっかり書き込んだのです。

 

中国は『4千年の歴史を誇る漢方医学』という割には70歳を『古稀(希)』といいます。これは「70歳、古来より稀なり」、要するに70歳まで生きるのは稀だという意味です。だから魏の使節は当然驚いて魏志倭人伝に書き記録したのでしょう。

 

礼儀、法律、刑罰も、わざわざ書き残すということは、自分たちとは違っていたからです。同じなら、『我々とほぼ変わらない暮らし』とか記録するでしょう。

 

それを、ことさらに?日本の古代は相当『遅れていた』ように、教育、マスコミで教えるのは「中国」「朝鮮半島」のほうが、すべてにおいて優れていた(現代も?)と洗脳?するためのものではないかと思えるほどです。

 

結局、仏教、米(五穀)、金属、蚕、文字、何でもかんでも『大陸伝来』というコンプレックス?を日本人に押し付けるための『歴史解釈』にしたい人たちがいるようです。

 

少なくとも上に書いたものはすべて日本発です。

もちろん本当は南方(台湾・沖縄)経由ですが。

(特に米は亜熱帯植物ですので寒い朝鮮半島から下へ降りてくるはずはありません)

エジソンといえば誰もが認める発明家です。蓄音機や白熱電球の実用化で有名になった企業家でもあります。

 

そんな彼が残した有名な言葉がこれです。

「天才とは1%のひらめきと99%の努力である。」

 

一度は聞いたことのあるこの名言!

しかし・・・

 

エジソンが言いたかったのは

「1%のひらめきがなければ、99パーセントの努力は無駄になる」

 

つまり、真逆の事を言っていたというのです。

 

後年「エジソン」はこんな事をいったそうです。

「記者によって努力を強調する文章に書きかえられてしまった。」と・・・

 

その言葉が世に出た、会見の席でエジソンに質問をした記者がいました。

 

記者

「エジソンさん。ひらめきについてどうおもいますか?」

 

エジソンは

「生またばかりの赤ちゃんの頭脳にはリトルピープル(地球外生物)が住みやすい構造になっている。このリトルピープルが人間をコントロールしているのだが、大人になるとこの声が聞こえなくなるのだ。

 

しかし、この1%のひらめき(リトルピープルの教え)を感じとることができれば、99パーセントの無駄な努力をしなくとも大丈夫なのさ。」

 

と、理解不能な答えが返ってきました。

しかし、記者は努力が大切なんだ!と解釈したために、冒頭の名言が誕生したのです。

 

そうだったのか~。エジソンさんは努力よりも充実した心(センス・オブ・ワンダー=幼い頃の鋭い感受性・ひらめき)を持っていれば、いいアイデが浮かぶと言いたかったのかも知れませんね。

ただ、がむしゃらに(暗記・受験勉強・知識偏重など)努力するより、子供時代には自然の中でいろんな体験(遊びなど)をしながら、『リトルピープル』と会話をする時間を持つことが良い人生を送ることが出来るようだ。

しかし、まったく何も努力しないのは、やはり『リトルピープル』も、愛想をつかして頭の中から出て行ってしまうでしょうね。



すでにご存知の方も居られるでしょうが、我々の業界(デザイン)では、広告媒体を製作するとき、基本にひとつの『原則』を置いて立案します。

 

●それが、「AIDMA(アイドマの原則)」です。ところが、この『原則』は常に潜在的に意識しておくことで『人生』のいろんな場面で実に大きく活きてきます。少なくとも私は学生時代(芸術学部・デザイン科)夏の集中講義でプロのデザイナー(確か、稲垣浩一郎氏)からこの原則を教授してもらい、感銘し、『意識』しながら生活・仕事・対人・恋愛などに取り入れてきたことで、自己満足かもしれませんが『最高の人生』を過ごしてきました。もちろん今後も楽しいものだと思っています。

 

AIDMA(アイドマの原則)」とは、

A...Attention (注目)

 I...Interest  (興味)

D...Desire  (欲求)

M...Memory (記憶)

A...Action  (行動)

の頭文字をとった『造語』です。

 

例えば私の仕事で多い印刷広告媒体(チラシなど)では、

 

A)いろんなチラシの中からパッと目を引き注目されるようなものにします。飛行機で(旧称)スチュワーデスさんが「アテンション プリーズ!」(こっち向いてください)と言ってみんなを注目させるのと同じです。

 

I)そうして手に取ったら、「おっ、これは良いなあ」と興味(インタレスト)を持たれるような内容にします。

 

D)「これは欲しいなー」と欲求を膨らませるような内容にします。(ちょっと古いけど、もんた&ブラザーズの渋い声で「デザイアー...」と歌うのが好きでした)

 

M)「この期間、この店で売っているんだ。」と記憶してもらう。(バーブラ・ストライサンドの『愛と青春の日々』主題歌で、「メモーリ...」が好きで、よくこの曲を口ずさみながらデザインします。)

 

A)「よし! 買いに行こう!」と、行動(アクション)をしてもらうことを想像しながら仕上げていきます。

 

●そうやって、ひとつの仕事をするときは自分の持っているすべてを出して、「AIDMA(アイドマの原則)」に基づいて制作をします。

そうして、印刷媒体が出来上がり配布し、結果、お客様(クライアント)から「チラシのおかげで売れたよー、ありがとう」と言われると実にうれしく、やはり自分の「AIDMA」効果があったと自画自賛に酔います。

 

●と、これは私の仕事の話ですが、例えば、私が今の妻を口説くときも「AIDMA」を使ったのです。最初のデートのとき、(高校の同級生なので初対面ではないのですが7年近いブランクがあり再会した)

 

A)「実は、僕は『ジンギスカン』の生まれ代わりだと思っているんだ。」   (注目させる)

I)「ジンギスカンは源義経が平泉では死なず、弁慶とともにモンゴルに逃げたと確信しているんだ。」(興味を持たせる)

D)「こうこういう理由でそう思う」(もっと聞きたいと言う欲求を持たせる)

M)「君は静御前の生まれ変わりだと思う。」(なぜそう思うのか、その説を詳しく説明しながら、記憶してもらい、だんだんその気になるようにする。当時、でまかせではなく本当にそんな気がしたからですよ。集中力が大事w)

A)「僕と君は義経と静なのだから一緒になるのは決まっていたんだよ」とストレートにアクション(?)したのではありませんが、こんな感じで確か2回目のデートで(意識上での)婚約をしました。

 

「義経」ジンギスカン説(高木彬光)を信じています。

 

そういった具合に、私の人生はほとんど「AIDMA」の原則でやってきて、私は幸せです。

 

いろんな人間関係・職域でも、この法則をもって行動・言語すればおそらくうまくいくような気がします。私がうまく行っているのですから。もちろん、原点にはそれのデータ収集『勉強』は必要です。いろんなことに「触覚」を働かして、興味を持っておくことが大切だと思います。

 「梅雨(つゆ)」の時期になると、マスコミや会話の中で、「いやな...」「うっとうしい」(不快)などの悪い表現ばかりが出ますが、私は、「自然」が与えたものには必ず「必要」だから存在するものだと信じています。

 

なぜかといえば、その地球環境が約束したかのように数億年間と繰り返して来た中で、生物や人類はそれに適応、もしくは順応しながら進化してきたからです。

 

◆「梅雨(ばいう)」とは、極東アジア特有のもので、中国の揚子江流域、朝鮮半島南部と、北海道を除く日本でみられる、夏至(げし)(今年は621日・旧暦510日)を中心として前後それぞれ約20日間ほどの雨期を言います。

 

中国では「Maiyu」、韓国では「Maeue」といい、日本の「Baiu」(音読み)は国際的にも通用する気象用語になっています。

 

中国の「梅雨」は、「梅の実が熟する頃の雨期」という「意訳熟語」です。昔の日本ではその伝わった「熟語」を「ばいう」と音読みして、

 

黴(カビ)がよく生える雨期なので、「黴雨(ばいう)」とも書かれました。

 

また、日本では「梅雨」を「訓音」で「つゆ」(汁、水気、水分)とも言いますが、水分の多い時期だからそう呼んだのでしょう。漢字の読みでは絶対ありえない読み方です。完全な意訳音です。

 

 ということは、中国「梅雨」は漢字熟語が作られ、日本ではそれを「バイウ」と読んだのだと分かります。しかし、当の中国の音は「Maiyu」、英語でも「5月」は「May」ですので、元々「5月」の原語?は「メイ・マイ」に近い言葉だったのかも知れません。

 

時期は旧暦の五月頃ですので、梅雨の「雨」は日本では「五月雨(さみだれ)」と呼ぶものと同様になります。

すると「五月(さつき)晴れ」とは、元来梅雨の時期、わずかな晴れ間を指す言葉であり、現在の新暦(太陽暦)の5月「皐月(さつき)」の透き通るような晴天に使うのは誤用なのです。

 

 旧暦・五月(さ・つき)は、まさに「田植えの月」という意味です。

 

田植え.jpg「さ」とは「田の神様」で、田植えの時一日だけ降臨され、みんなを激励されます。だから梅雨時期の稀な「五月晴れ」に、出来る限り一日(その家の分)で田植えを済ませるため、一家総動員で田植えをします。また、「もやい」と言われる「共同作業」で順番に仕上げていきます。

 

神様が与えた苗は「さ・なえ(早苗)」、それを植えるのが「さ・おとめ(早乙女)」と、今も「田植え神事」などが行われています。

 

集落一帯の田植えが無事終わると、それを見届けた「さの神様」は天に昇られる。それに感謝し、地域みんなは「さ・のぼり」(サナボリ、サナブリともいう)の宴を奉納して祝います。

子供のころ、そのときのご馳走や、大人たちの歌ったり踊ったりの宴が楽しみで、精一杯手伝ったものです。

 

 だから、稲作との関連が少ない地方(中国・朝鮮半島・ヨーヨッパなど)では、五月は「メイ、マイ」であり、『田植え』とはまったく関係のない音声です。

(英語の語源は知りませんが、子供のころ「5月」を英語で覚えるとき、

5月は姪(めい)が遊びに来る』と覚えていました。)

 

 日本の歴史では、稲作は朝鮮半島経由で入ってきたことになっていますが、まずありえません。稲も竹も『イネ科』の亜熱帯植物です。

要するに、極東の稲作は日本(東南アジアから中国南部「呉」、台湾、沖縄、奄美、九州)から朝鮮半島に上がったのです。そして中国北部へ移ったのです。(朝鮮・中国の歴史でそれが証明できる)

 

稲作の技術については『海幸彦・山幸彦』でも出てきます。あの話の舞台は『種子島』です。

タネのことを琉球語(沖縄)では『サヌ』といいます。

サヌは、「サの」という意味です。(沖縄は母音のeoをはっきり言わない)『ヌ』は「...の」(助詞)だから、稲タネの神『「さ」の島』が、「種子島」になったのだろう。

 

また、「さ」の音声は「狭」であり、『狭穂姫』伝説、神武天皇の名乗りも『狭野ミコト』です。『海幸彦・山幸彦』には「玉依姫(=豊玉姫)」が出てきて、「南種子町」には「宝満の池」がある。

 

ましてや、わざわざ「古事記」に書かれたのだから、単なるおとぎ話ではないのです。大きななぞが含まれています。

しかしもうほぼ解明できました。

 

『海幸彦・山幸彦』は後日、『おじいさんの昔話』にします。

 

1月中旬から2月初旬は一年のうちで一番寒い頃です。
 この時期には秋まきの麦が7~8センチほどの芽を出しています。それを霜が降りている早朝に、1~3回ほど『麦踏み(踏圧)』していました。

 わが家では、ほとんど両親がやっていたのですが、近所のお年寄りが居る所はおじいさんやおばあさんまでが総出で朝からやっていて、あちこちの畑(田んぼ)に何人もの人が、黙々と麦踏みをしている光景が見られました。

(麦は湿田に弱いので畑作か、水田で米との二毛作では畝〈うね〉作りで、畝と畝の間を雨水排水溝にする)子供達も日曜日などで学校が休みの時は小学生でもみんなやっていました。私も随分やりました。

 ところが、長靴を履いていても足の先がジンジン冷えて痛くなるほど、冷たくてたまりませんでした。
そこで、最初に「ぼくは何畝すればいいの?」などと『ノルマ』を聞くと、母は「そうねぇ、ほんとはみんな終わるまでして欲しいけど、まだ小さいしカゼひいたらいかんから、辛くなったらやめてもいいよ」と言われ「だったら三畝でいいね?」というと「いいよ」と言ってくれました。

 そこで、「指示された分」だけをやるような気分で、本当の仕事の『目的』は知らなかったのです。だから、早くさっさと何畝かを済ませて、家に帰り「こたつ」に入って漫画の本でも見たかったのです。

002麦踏み.jpg しかし両親は、毎年毎年、数反の麦踏みを繰り返してきました。私は、早く済ませようと適当に踏んでいますと、しっかりゆっくり踏んでいる父に追いつき、得意になって追い越しました。すると父から、
「そんな、適当にしたらいかん。お前は体重が軽いからもっとしっかり、ゆっくり踏まんか」と叱られてしまいました。
 私は、せっかく芽を出したばかりをこんなに踏みつけたら枯れないのか、また、他の野菜などはこんな事をしないのになぜ「麦」だけはこんなにいじめる?のだろうかというのも麦踏みのお手伝いをしたくなかった理由だったのです。
だから父に尋ねました。
「どうして麦は踏みつけるの?」と。
 
 すると、この時期には気温が零下になると霜柱が立ち、根や株が盛り上がり『凍霜害』になるので、それから守り『耐寒性』を付けるためと、新芽は元気が良すぎてどんどん伸び、いわゆる『背高ノッポ』の足腰の弱い茎になってしまうので、しっかりと『徒長』を抑え、鍛えるために麦踏みをするということでした。
 それを知った後では、「麦くんのためになるのだ」と、しっかりと踏むようにしました。

 結局、この『麦踏み』は、現代の『子育て』や『学校教育』にも共通するような気がします。子供が危険な環境にさらされているときはそれを親は全力で予防してやり、逆に放任・甘やかしで体も精神も軟弱に成長していくのを厳しく鍛えてやるのが、本当の愛情のある親子関係だと思います。

 そのように、私に麦踏みの手伝いをさせたのも、体を鍛えて寒さなんか吹き飛ばすような元気な子に育って欲しいと思ってのことだったような気がします。
 実際今もほとんどカゼもひいたことなく毎日仕事に励んでいます。

■麦のことわざに、「彼岸過ぎの麦には手をかけるな」というものがあります。今年は3月18日が『彼岸入り』ですが、収穫時期は初夏(五月初旬)ですので、約40日前です。
 要するに、麦踏みや「土かけ」作業などいろいろな『手』をかけるのは春の彼岸頃までで、後は『自力』ですくすく育ち、実っていくというものです。

結局その頃になっても、いろいろと手をかけていると、ついつい実りが悪かったり、病気になったりするのを昔の人達は、経験で知っていたのでしょう。

■人間で言えば、それがちょうど「元服」(昔は地球規模で大体15歳頃だった。)にあたるのではないでしょうか。
 麦は彼岸まで(子供もその頃まで)は一生懸命かわいがり、鍛えながら育てて、その後は『自立』に任せるということでしょう。

■さらに『子育て』に大切な要因の一つに「褒(ほ)めてやる」こととよく言われますが、(百科事典によると)

 島根、広島、山口県などでは、正月20日を『麦正月』といい、『麦褒め』をするそうです。
二十日(はつか)正月の『麦飯とろろ』を食べてから、外に出て大声で「今年の麦は出来がようて、背中から腹へ割れるべよう」と唱え、

 山口県萩市見島では、麦の団子を竹に刺して持って、山に登り、
「よその麦はやぶれ麦、これの麦はええ麦」と褒めるそうです。
また島根県大原郡では、麦畑に蓑を敷いてその上に寝転がり、
「やれ腹ふとや、背な割れや」と唱え、
 福岡県宗像、「地の島」では三月三日を『麦褒め節句』といって、畑に出て麦の出来を褒めるそうです。(現在存続は知りませんが)

■そのように「麦作」では麦踏みでは「守り」「鍛え」さらに成長の段階で「褒めてやり」、結局「彼岸」で独り立ちさせます。

そして、初夏の収穫後は『収穫祭』が各地いろいろな形式で行われます。人間に例えると、素晴らしい人生に対する「勲章」のようなものでしょう。

 現代の麦踏は機械でするようです。しかし、私達が幼い頃どんどんアメリカ産輸入が増えてきて、価格は暴落し、麦を作る人はいなくなってきました。

結局、麦の栽培をしなくなった頃から、子育ても変わってきたような気がします。

 『よく学び、よく遊べ』という言葉は、私は「遊ぶとき」と「学ぶとき」を完全に区別して、勉強するときは徹底して勉強し、遊ぶときは学問から解き放たれて思いっきり楽しく遊びましょう。という考えではありません。

 

 実は、「よく遊び、よく学べ」というのは「文武両道」とよく似ているのです。

 

 以下は『養老猛司』氏の説を参考にしています。

 

陽明学の「知行合一」は「知識」と「行い」は一緒である。とか、武士の「文武両道」は、畳に正座して書物を読み勉学をし、それが済んだら、今度は道場で竹刀を振り回して武道に励む。その両方とも優れていることだ。と思っている人が多いようですが、そうではないのです。

 

 「知行合一」の「知」も「文武両道」の「文」も、脳への「入力」のことです。脳への入力は五感を使います。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚です。

脳はその入力情報をもとにして「出力」(声を出す・書く・動く...)をします。つまり、出力とは筋肉の動きだけで、それが「行」であり「武」なのです。

 

要するに、人間の運動はすべて脳からの指示で動くのですから、いくら勉強(入力)しても、それを元に言葉で表現したり、紙に文字で書く(出力=運動)をしなければ脳からは何も出力できません。

人間活動(出力)はすべて肉体運動のことです。ところがよく、頭脳労働・肉体労働といった風に分ける事がありますが、それを勘違いしないように、昔の人は「知行合一」、「文武両道」とやかましく言ってきたのです。

 

ここで、『よく遊び、よく学べ』に話を戻しますと、幼年期の子供にとってまさに「文武両道」と同じ意味です。ただし、『文・武』と『遊・学』では「入力・出力」が逆になっているような気がしますが、実は幼年時代『遊び』と『勉強』はどちらも入力であり出力にもなります。

 

ハイハイを始めた赤ちゃんが、遠くの小さなゴムボールを見つけて、少しずつ近づいていきます。するとだんだん大きくなります。形は変わっていないのに大きさが変わってくる。今度はそのボールを遠くに転がします。するとまた小さくなってしまいます。そうして何度も遊ぶうちに、その大きさによって自分からの距離感も分かってきます。

 

つまり、算数で「相似」、「比例」、絵画などの「遠近感」の感覚が脳にインプットされたのです。

そのようなこと一つとっても、入力...出力の繰り返しが遊びであり勉強です。

 

だから教科書的な「知」、「文」だけをいくら入力しようとしても、「行」「武」つまり出力が伴わなければ、本当に意味での入力情報にはなりません。

 

それをバランスよく育てようとしたのが『よく遊び、よく学べ』だと思います。

(これは1995年発刊された本からの引用です)

 

山本五十六は生きていた

負けるべくして始まった太平洋戦争

ヤコブ・モルガン・著  第一企画出版  1995年刊

 

はじめに  あなたの歴史観が180度変わります

 

 日本の未来に危機が迫っている。日本は滅亡への道をひた走っているのだ。

 日本の政治家はこの日本に何をしようとしているのであろうか。驚くなかれ、それは日本の破壊である。多く日本人は、政治とは日本国民の幸福の追求のためにあると信じている。だがそれは全くの誤りであり、幻想に他ならない。政治家は選挙によって国民から選ばれているのだから、国民のための政治をするのが当たり前だと思っているかも知れない。しかし、それでは政治というものの本質がまるでわかっていないことになる。

 日本人は国際情勢に対する認識の甘さや、政治家として軍部の横暴に歯止めをかけることができず、何度も国家の運営に失敗をしてきた。明治初期に国家大方針の選択を誤り、やがて太平洋戦争で高貴なる国家を滅亡させた。

 戦後の日本は平和である。平和すぎるから国民がみんなボケている。もはや集団催眠状態と言っていい。日本を取り巻く現在の世界情勢は、戦前にも増して危険の度合いを強めているにもかかわらず、そのことを十分に認識していない。日本人は今の平和がずっと続くと思っている。この日本人の認識の甘さにつけこんで、今の政治は再び日本を滅亡に導こうとしているのだ。

 日本には国家としての危機予知能力や管理システムは著しく不足している。いや、全くないと言ってもいい。ないからこそ、国際的な諸問題への対応も適切さを欠き、混迷する政治や長期化する不況にも有効な手が打てないでいる。日本が最も不得意とするものは「大局観」と「戦略」の構築である。

 この2つの重大な要素を欠くために、日本は国際社会において何度も失敗を繰り返す。日本にとって一層悲劇なのは、日本人自体の中に、日本を破壊し滅亡させようという徒党がいることである。彼らは明治以来一貫して日本の弱体化を画策してきた。こういう手合いは政界や軍部、財界、民間人、そして何と明治の元老の中にさえ多く見られた。彼らは一致協力して日本の進路を曲げ、破滅へと導いていった。

 再び日本は重大なる岐路に立っている。日本の政治は放置すれば必ず滅亡への舵取りを行なう。なぜならば、多く政治家たちは「世界支配層」に魂を売り、金で雇われているからである。

 平成の政治状況は、日本が太平洋戦争へと突入していった昭和の初期と酷似している。日本の政治とは日本の破壊のためにあった、と言っても怒るなかれ。歴史がそれを証明している。

 

 白人種は元来戦闘的、侵略的    

 

  人間はこの地球という惑星に知的生命活動を始めて以来、その生存のため、実に多くの生態を展開してきた。地球の環境というものは地球自体が球形であり、1億5000万kmのかなたから太陽光を受け、1年という周期で公転し、1日という単位で自転するとともに、その地軸が黄道面に対しておよそ23.5度傾いているがゆえに、その場所、地域によって大きく異なるのである。しかも地球はその表面積の71%を海でおおわれ、それによって隔離されたいくつかの大陸や亜大陸そして大小の島嶼によって成り立ち、気候や地形もはなはだしく相違を見せる。このような地球に古代より多くの人種・民族が住みつき、それぞれの場所で異なる環境に適応しながら生存を続けてきた。

  古代には現在のような通信手段やジェット機、高速鉄道などの交通手段はなかった。だからそれぞれの人種・民族は互いに隔離され、長い時を過ごしてきた。そして独自の言語、宗教、文化、風俗などを発展させてきたのである。

  人間の性質は環境によって大きく影響されるものであるから、比較的大きな人間の集団である国家や民族単位も自然環境の好悪に応じてその性質は形成される。すなわち国民性や民族性である。

  厳しい自然環境で生きぬいてきた民族は、その性質も俊厳であり、戦闘的である。筋力や瞬発力も優れ、戦士としての体格にも恵まれている。また何よりもタクティクス(戦術)に長けている。そして勝ち残るためのストラテジー(戦略)も発達させた。一方、温帯や亜熱帯の豊かな土地で生活してきた民族の性質は温和であり、協調的である。ところがそのために戦闘力は弱く、体格も比較的小さい。

  一般に白人と言われる人種、なかでもアングロ・サクソンやゲルマンなどは戦闘的でかつ戦略的な民族である。これに比べアジア人種、特に東南アジアや極東アジアの民族はおとなしく、ひ弱である。

  人間はひとりで生きられるものではないから集団を形成して生存をはかっている。その単位となるものは家族、部族、民族、国家である。このような単位が自然発生的なものであれば、血縁や同一の言語、宗教、文化、風習を共有することが結合のための条件となる。集団は家族単位から部族へ、さらに民族国家へと拡大していくが、歴史の進展過程では集団を統率する長は家長から族長へ、そして国王へと展開していく。部族や民族国家では古代ですら人口は数万人から数百万人ともなろう。このような大集団が機能するためには秩序ある規律が不可欠であり、そのための政治が必要となってくる。

  国家には国王を頂点とした権力機構が形成され、平和で理想的な国家であれば、国王は臣民を愛し、いつくしみ、その生活向上のためによき政治を行なう。また臣民は限りなく国王に対する敬愛の念を寄せる。なぜなら家長の延長が族長であり、そのまた延長が国王であるからで、部族、民族発生の起源以来、国王家族は臣民を代表し、かつまた愛し、統率・指導するからである。

  国家はこうして国王を中心とした一大家族となり、運命をともにし、国王・臣民は互いに助け合い、愛し合うのである。このようなところから自然発生的に家族愛同様、民族心や愛国心というものは生まれてくるのである。国王は世襲制となり、臣民はこれを守り、歴代の国王がもたらす良き政治は国を発展させ、臣民の生活を豊かにする。

 

 平和に生きたい民族と略奪が日常の民族    

 

  ところが人間社会というものはこううまくはいかないものだ。まず第1に外敵の侵入・攻撃がある。敵が圧倒的な軍事力を有していれば王国は滅亡する。

  第2に国王自身の悪政がある。長い王国の歴史上には必ず国王の資質上の問題で国家運営に破綻をきたすのである。そして3番目は臣民の中から野心家、陰謀家が現われ、国家体制の転覆を企てる。いわゆるクーデターである。この場合の首謀者は得てして外敵と通じあっている場合が多い。

  いずれにせよ、1つの民族や国家が平和で安全に生存するためには、何と言っても確固たる中央権力とその政策を遂行するための行政機構、それに外敵から身を守るための軍組織が必要である。これは自明のことだ。

  国家は同一民族で成り立つべきものだが、そうであればなおさら他の民族国家とは利害関係をめぐり闘争しがちである。特に国境を接する国どうしでは絶え間なく戦争が起こる。戦争に勝ち残った大国家、帝国は領内に他民族を包含することになるが、ここに単一民族国家体制は崩れ、帝国の拡大とともに民族問題は潜在化していく。国家内で抑圧された民族や階層は反権力闘争を強めるのである。近世までほとんどの民族国家は絶対君主をいただく封建制であったが、このような体制を不満とする勢力は互いに連携して国家体制の転覆を企て実行した。

  17世紀におけるイギリスの清教徒革命、18世紀のアメリカ合衆国建国、フランス革命、19世紀の日本における明治維新、そして20世紀の辛亥革命、ロシア革命、さらにドイツ、オーストリア、トルコ、大日本帝国の崩壊である。

  世界中の王国、帝国を倒壊していく過程で新たな権力の座についた「世界支配層」ユダヤ・イルミナティ・フリーメーソンは、打ち続く戦乱で鍛えられた白人層を世界征服のための先兵として駆使してきた。

  マクロ的に見ればヨーロッパやアメリカの白人層は相対的に国力を増大し、白人間の熾烈な闘争によって鍛えられた戦闘力でアフリカ、中近東、中南米そしてアジア太平洋地域へと侵入、その旺盛な物質的欲望と覇道主義によって世界の分割に乗り出したのである。

  16世紀から20世紀初頭に至る白人帝国主義国家による世界各地での残虐非道な植民地支配は、弱者である被支配地域に深い傷跡を残したが、その真実のすべては決して明らかにされることはない。その暴虐のすさまじさは、殺された人民の数もさることながら、地球規模で略奪された文化遺産や美術品の量を見ても明らかであろう。大英博物館やルーヴル博物館などはそれを証明している。

  残虐行為を働くものはその戦慄的行動の当事者であると同時に、情報の管理者でもある。大地が血の海となっても「血は一滴も流れなかった」と発表する。だが真実の一端はごくわずかの生存者によってもたらされ、語りつがれるのである。

  アジア・太平洋地域では19世紀から20世紀中頃にかけて多くの悲劇がもたらされた。白人種によるアジア人種への圧迫と領土的、民族的支配によってである。19世紀中頃、アジアおよび太平洋の広大な領域はほとんど植民地としての徹底的な支配を受けた。

  白人帝国の世界分割支配を陰で操ったのは国際ユダヤ勢力(イルミナティ)であり、その実行組織であるフリーメーソンである。

 

 団結力の強い日本民族を粉砕したいのだ      

 

  ところが東洋を完全支配しようとした「世界支配層」に大いなる誤算が生じた。それは日本の存在である。以前より日本にはすでに何人もの工作員を送りこみ、計画通りクーデターによって徳川幕府を倒壊することに成功した。その理由は幕末、維新を遂行した日本人の多くが洗脳され、忠実なるエージェントとなったことである。そして、ことはすべてうまく行くはずであった。だが東洋のいち島国にすぎなかった日本が、明治維新後の激しい欧化にもかかわらず、いつの間にか強烈なナショナリズムに目ざめ、いち早く封建制を脱却し、近代天皇制国家のもとで強力なる軍事力を保有、西欧列国に肩を並べ始めたのである。

  明治維新はまぎれもなく日本の封建的幕藩体制を倒すためのフリーメーソン革命であったが、国際ユダヤ勢力のひとつの誤算は、日本人が持っている天皇への絶対的とも言える忠誠心である。この権威の前にはユダヤ・フリーメーソンが仕掛けたいかなる内的・外的工作も効果を発揮し得なかった。

  アジア分割支配のためには日本を屈服させ、無力化しなければならない。そのために周到なる準備が必要であった。ペリー艦隊が日本に送りこまれたのも、日本に開国を迫り国家体制を変革させることが目的であった。

  幕末・維新当時すでに何人かの日本人がフリーメーソンとなっていた。坂本龍馬はその代表的人物である。明治の国家大改造はフリーメーソン及び欧化主義者たちによってダイナミックに行なわれたが、その後の日本がたどった太平洋戦争に至る道すじのことごとくが「世界支配層」の描くシナリオ通りに事が運ばれたのである。けれども、ほとんどの日本人はこのことを知らなかった。日本人と大日本帝国は破壊すべくして破壊させられたのである。

  日本がかつて夢みた「アジアの盟主」たることや「王道楽土」の建設、そして「八紘一宇」の思想はことごとく挫折した。日本人がいく百万人もの兵士の血で遂行した大陸政策や戦争の数々も「世界支配層」の大計画の前には無力であった。と言うより、日本は見えざる手によって否応なしに敗北へと導かれていったのである。

  米欧や中国との協調路線を主張した政治家も強硬路線を突っ走った軍部も、結局は「世界支配層」に操られていた。

 

 軍部の中枢が売国者(フリーメーソン)では勝てる訳がない       

 

  「大本営陸海軍発表。帝国陸海軍は本日未明、西大平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」----昭和16年(1941年)12月8日、早朝ラジオの臨時ニュースは日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入したことを報じた。

  日本はこの日より国家滅亡への道をひた走りに進んでいくのである。日本が米英を相手に戦いを始めたことは大局的かつ戦略的な失敗であった。だが、はたして当時の日本に他の選択肢があったかと言えば、それはなかったとしか言いようがない。

  明治以来、日本はアジア諸国を決して友邦として扱ってこなかったのみならず、アジア人を一段低いものとして蔑視すらしてきた。中国や朝鮮と連帯するどころか、植民地支配を続け、抗日、侮日のナショナリズムを高揚させたのである。日本はアジアの中で孤立し、ABCD(米・英・中・蘭)包囲網によって経済的に追いつめられていった。

  日本が描いた「大東亜共栄圈」の夢もアジア諸国の理解を得られたものではなく、日本が西欧植民地にとって代わるというスローガンでしかなかった。満州事変を正当化した「王道楽土」の建設も、結局中国人には通用しなかったのである。太平洋戦争はまさに「清水の舞台から飛び降りた」(東条英機)ものであった。

  だが、太平洋戦争が勃発せざるを得なかったのは、日本を戦争にひきずり込む、数々の歴史の罠と歯車が存在したからである。

  太平洋戦争は海軍が主体の戦争であった。アメリカを相手に戦って日本が勝つ見込みはほとんどなかったが、日本側にもし本来の高度な戦略とそれを実行する優秀かつ愛国心に燃えた将官がいれば、戦局は大いに違ったものとなっていただろう。

  日本帝国海軍の中枢は欧米派で色どられ、その内の主要な人物はユダヤ・フリーメーソンですらあった。このため日本の海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは敵に手ごころを加え、まるで負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。

  また陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。

  陸軍参謀本部といえば陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートである。その彼らが、まるで痴呆のように拙劣な作戦を立案してはそれを強行し、日本軍に取り返しのつかない打撃を与え続けたのである。

  参謀本部のエリートたちもやはり日本を敗北に導くために「世界支配層」によって操られた者たちであったのだ。彼らの一部はユダヤ・フリーメーソンであり、またその一部はソ連と通謀した共産分子であった。

  国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。

  太平洋戦争は大きく分けると4つの局面で展開していく。それは「開戦・進攻」、「戦局反転」、「特攻・玉砕」、「斜陽・終戦」である。そしてそれぞれの局面で日本軍はいつも決定的な失策を犯し、戦局は暗転していくが、その失策を犯す人間はある特定の人物であり、その人物の指導により日本軍は決まって壊滅的な打撃を受けるのである。

  太平洋戦争は勝てるはずの戦いであった。いや、勝てないまでもこのように悲惨な負け方をするはずのない戦争だった。日本軍の兵の士気、優秀さ、空母、戦艦、航空機など兵器や物量の点においても日本の戦力は充分にアメリカを凌駕できるものであった。

  にもかかわらずこのような負け方をせざるを得なかったのは、戦略や作戦に携った司令官や参謀たちの多くが無能であったという以上に、敵と密通し日本が敗北することを望んだ奸たちがいたからに他ならない。日本は戦う前にすでに敗れていたのである。

 

 この戦争指導者たちがユダヤの手先である           

 

  太平洋戦争の全容は実に膨大であり、その戦闘のひとつひとつを語ることは数十冊の本をしても不可能に違いない。(中略)

  それぞれの戦局で日本軍を敗北に導く役割を果たした主な人物たちは次の通りである。

 

● 米内光政 .........海軍大将、海軍大臣、首相。フリーメーソン

● 山本五十六 ......連合艦隊司令長官、海軍大将・元帥。フリーメーソン。

● 南雲忠一 .........真珠湾攻撃時の第一航空戦隊司令長官、海軍中将、ミッドウェー海戦

             時の第一機動部隊指揮官。

● 源田実 ............第一航空艦隊参謀、海軍大佐。

● 井上成美 .........海軍軍務局長、第四艦隊司令長官、海軍中将。

● 原忠一 ............真珠湾攻撃時の第五航空隊司令官、海軍少将。

● 服部卓四郎 ......大本営参謀作戦課長、陸軍大佐。

● 辻正信 ............大本営参謀本部作戦課参謀、陸軍大佐。

● 瀬島龍三 .........大本営参謀本部作戦評参謀、陸軍中佐。

● 牟田口廉也 ......支那駐屯歩兵第一連隊長、ビルマ方面軍

                               第一五軍司令官、陸軍中将。

● 栗田健男 .........第二艦隊司令長官、海軍中将。

 

  もちろん、彼らだけがすべてではない。日本の陸海軍の組織は複雑な派閥で形成されており、人脈は網の目のようにはりめぐらされていたから、日本軍が敗北していく過程には何百人、何千人という多くの協力者が暗躍したのである。

  重要なことは、日本軍や政財界の中には、日本が天皇制軍事国家であることを望まず、米英(ユダヤ)やソ連(ユダヤ)と通謀して日本の国体破壊にひたすら協力した者が大勢いたということである。

 

 東京裁判でも裁かれず戦後は英雄扱い    

 

  戦後、太平洋戦争を振り返って多くの本が出版されている。戦記ものから人物伝、敗北の原因探究を行なうもの、戦争の反省など無数とも言える書物が存在する。だが、日本の敗北が日本人自身の手によって現実化されたことを指摘する本は少ない。

  それどころか、真の戦争犯罪者は極東軍事法廷(東京裁判)でも裁かれず、戦後数々のフリーメーソン作家によって「英雄」または「偉人」として最大限に賞賛されている。米内光政や山本五十六、井上成美などがそうである。

  日本人は戦後においてもまだ歴史の真相を知らされず、騙され続けているのだ。太平洋戦争敗北の原因は、多くの研究家によって一般的に次のように分析されている。

 

● アメリカを敵としたこと。

● 真珠湾攻撃によるアメリカ兵の士気高揚。

● 大本営による机上のプラン(前線の実状無視)。

● 戦線の拡大、兵姑(へいたん)の無視。

● 兵器(含レーダー)の発達無視。

● 戦略なき戦術論。

● 銃剣突撃、決戦主義(精神主義)。

● 暗号の漏洩(日本はスパイ天国であった)。

● アメリカ本土での諜報線を断たれた(日系人の強制収容)。

● 潜水艦の使用法錯誤(米潜水艦は徹底して日本の補給線を断った)。

● 航空機の戦略的位置づけ錯誤(米航空機により制空権を奪われた)。

● 大艦巨砲主義から脱却できなかった。

 

  これらの分析は一応みな正しい。だが、知らずしてか意図してかはわからないが、戦後の歴史家、研究家が掲げていないもうひとつの原因がある。それは日本人のなかにいた「敗戦主義者」の存在である。彼らこそが歴史の深層に隠された最大にして最悪の原因だったのである。

  大本営参謀本部、軍令部の高級参謀たち、そして陸海軍の将官、司令官たちがいかなる行動をとり、日本を敗北に導いたかその軌跡をたどることにしよう。

 

山本五十六は生きていた』

米国のために重大な役割を果たした山本五十六

ヤコブ・モルガン・著  第一企画出版  1995年刊

 

 骨の髄まで親米派のフリーメーソン      

 

  山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。

  (中略)

  大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。

  大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。

  大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。

  大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。

  山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。

 

 空軍の重要性を熟知しながら設立を拒否          

 

  山本五十六は戦術兵器としての戦闘機改良には大いに貢献したと言えるが、海軍の航空化には賛成しても、空軍の独立には一貫して反対であった。

  イギリスではすでに大正7年(1918年)に空軍を独立、ドイツでもナチス政権が昭和10年(1940年)には空軍を創設していた。

  あれほど航空戦力を重視した五十六に、空軍独立の必要性と重要性がわからなかったはずはない。山本五十六は意図的に日本空軍の創設を拒んだのである。

  その狙いは2つあった。1つは、日本が独立した空軍を持つことで(米英軍に対して)戦略的な優位に立つことを恐れたからであり、もう1つは、来たるべき対米戦で真珠湾攻撃を行なう際に、すべての航空戦力を自分の指揮下に置いておくためであった。

  日本の航空戦力を海軍の補助戦力として位置づけることによって、日本は確実にアメリカよりは劣勢でいることができる。フリーメーソンの山本五十六はそのように考えたに違いない。

  海軍大学校教官・加来止男中佐(のちに空母「飛龍」艦長。ミッドウエー海戦で艦と運命をともにした)と陸軍大学校教官・青木少佐は連名で、陸・海大学校長あてに空軍独立の意見書を提出するが、山本五十六を本部長とする海軍航空本部はこれに対して、正式に空軍独立反対を表明するのである。

 

 真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力    

 

  連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦はもはや避けられないものとして、いつの間にか真珠湾攻撃を口にするようになる。

  欧州ではすでに昭和14年(1939年)9月3日、第2次世界大戦が勃発してドイツが破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激昂させ、その怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

  フリーメーソン山本五十六はルーズヴェルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲攻撃の構想を練ったのである。

  山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年あまり経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの雷撃訓練が行なわれた。五十六の計画の中には、すでに機動部隊による真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。

  ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行なわれた。こうして訓練に訓練を重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結、昭和16年(1941年)11月26日、秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機は、ハワイ・オアフ島パール・ハーバーにあるアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲した。

  アメリカ大統領ルーズヴェルトはこの奇襲攻撃を事前に知っていた。日本の外務省が使用していた「紫暗号(パープル)」はアメリカに筒抜けであったが、この裏には日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。

  真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。

  不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。

  被害を受けた戦艦はいずれも1910〜1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。

  こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」により英雄視されているが、その結果残ったものは「日本の卑怯な騙し討ち」という非難と、アメリカの対日積極参戦の意識高揚、そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。この時死んだアメリカ兵2403名は今でもアメリカ人にとって対日憎悪の原因となっている。

 

 最後通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世  

 

  真珠湾攻撃にはいくつかの不可解なことが起こっている。ひとつは宣戦布告の通知が遅れたこと、そしてもうひとつは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと言うほかはない。

  日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものであった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をフシントン時間、12月7日午後1時に行なうものであった。ところが野村、来栖大使が実際にそれをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、その時真珠湾はすでに猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交がなぜ遅れたかについてはもっともらしい説明がつけられている。

  対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通はアメリカ時間の12月6日中に日本大使館に到着し、すでに電信課によって暗号解読され、その日のうちに書記官に提出されていた。残り、すなわち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

  その時の大使館の様子は次の如くであったとされる。

 

●14通の電報は2種類の暗号を重ねたニ重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、ほぼ同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。午後8時半頃事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官たちを誘って行きつけの中華料理店の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成一等書記官の中南米転任送別会をかねていた。

 

●7日、早朝13通分の電文タイプを開始。寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、および妻の母とともに郊外にドライブ、連絡もつかない状況であった。

 

●7日の朝、大使館の電信課宿直員で若い熱心なクリスチャン藤山猶一は14通目の電報ともう1通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、その日は日曜日であったため、教会の礼拝に出かけ、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官および松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。

 

  14通目の電報の暗号解読が7日の何時から始められたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報がすでに解読されており、事の重大性に大使館全員が気づかないはずはない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて、いつでもハル国務長官に提出できるようにしておくのが当然であったろう。

  だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半頃からであり、14通目の暗号解読が終わったと推定される午前10時頃までは奥村一等書記官によるのんびりしたペースであった。ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時開が午後1時であることがわかり、大使館は騒然となった。だが日本の外務省から秘密保持のためタイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では、慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、来栖大使が手交したのは1時55分であった。

  この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむものである。

  まず外務省であるが、わずか残り数行にすぎない14通目と最後通牒文である電報を、なぜわざわざそれまでの13通よりはるかに遅れて発信したのか。さらにこの重要な時期になぜ寺崎一等書記官を転任させる処置をとったのか。またなぜ秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか----などである。

 

  大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が、まるで事の重大性をわきまえぬ無神経かつ怠慢な動きをとっていることだ。これは一体何を物語るものであろうか。答は2つ。外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、さもなくば確信犯であったということである。おそらく真相は後者であろう。

  戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が、帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにするよう進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶のひとりフリーメーソンであった。当時の日本大使館員たちは戦後いずれも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

  日米開戦の最後通牒が遅れ、真珠湾攻撃が卑怯な騙し討ちになったことで、アメリカ人の世論は開戦派が以前の3%から90%にはね上がっている。日本外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。

 

 不徹底な攻撃で米国を助ける      

 

  ところで「攻撃の不徹底」であるがそれには2つの意味がある。

  ひとつは真珠湾上のアメリカ海軍艦船に対するものであり、もうひとつはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。

  真珠湾攻撃で受けたアメリカ太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された程大きなものではなかった。戦艦8隻のうちアリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後すべて水深15メートルという浅い海底から引き上げられ、修理されて、いずれも戦線へ復帰して大活躍しているのである。

  また陸上施設については南雲第一航空艦隊司令長官による第1次、第2次攻撃隊は全く手を触れておらず、第3次攻撃隊を出すことも中止している。第3次攻撃に関してはほとんどの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第11航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第3波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀はおろか、はるか後方の旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官までがその必要性を認めていないのである。

  もし、この時第3次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、さらにはアメリカ海軍基地の補給、修理施設、工場群、燃料タソク群を破壊しておれば、太平洋の戦局は大いに変わったものとなったであろう。

  ハワイがアメリカの太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であったことを考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異なものであると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば、アメリカ本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、アメリカの太平洋艦隊は身動きがとれなかったのである。

  さらにもうひとつつけ加えるならば、ハワイ攻撃の日がなぜ12月8日であったかということだ。もちろん日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上この日になったというのはひとつの説明であるが、山本長官が、この日は真珠湾にアメリカ空母がいないことをあらかじめ知っていたからであろう。

  山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初からなかった。日本がアメリカを奇襲攻撃し、「卑怯な日本」という既成事実をつくればそれでよかったのである。

 

山本五十六は生きていた

日本兵を大量にムダ死にさせた山本の作戦

ヤコブ・モルガン・著  第一企画出版  1995年刊

 

 日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的     

 

  昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。この作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して強固な前進基地を構築し、アメリカとオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させることだった。

  この頃、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省および参謀本部・軍全部で戦争指導計画の再検討が行なわれ、「今後採ルペキ戦闘指導ノ大綱」が妥協によって3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、できるだけ早く占領あるいは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。

 

(1) ソロモン諸島のツラギ、およびニューギニア南岸のポートモレスビーの基地を占領し、珊瑚海とオーストラリア北部の支配権を確立する。

 

(2) ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面作戦により襲撃する。

 

(3) フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、アメリカ合衆国とオーストラリアとの直接連絡路を断つ。

 

  このうち(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」、計画(2)は「MI」とされ、この2作戦が失敗した場合、計画(3)は中止するというものだった。こうして先ず「MO」作戦が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、その真の意図は、この作戦によりアメリカ太平洋艦隊をこの海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させることだった。

  驚くなかれ、山本長官の狙いはアメリカの太平洋艦隊を撃破することではなく、その逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、海路からこの地を攻略するため井上成美中将の指揮する第四艦隊は、珊瑚海において5月7日、8日の両日、アメリカ太平洋艦隊(司令長官チェスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。

  この海戦で日米はほぼ互角のたたき合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥胤」1隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各1隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空母「レキシソトン」が沈没、「ヨーククウン」は大破した。

  ところがこの時、井上中将はなぜか「ヨークタウン」にとどめをさすことをせず、攻撃を中止して北上するのである。この「ヨーククウン」がハワイの海軍基地に帰り、わずか2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、あの連合艦隊撃滅の立役者となるのである。

  この珊瑚海海戦で井上成美第四艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。それは「手ぬるい攻撃」によって引き起こされた戦術的勝利・戦略的大敗北に他ならない。

  しかも真珠湾攻撃同様、暗号はことごとく米軍によって解読されていた。ニミッツによる空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦をすべて事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しいものとなり、日本軍の限界を示すものとなった。

 

 なぜ暗号が米軍に筒抜けになるか    

 

  こうしてミッドウェー攻略作戦は陽動作戦であるアリューシャン作戦とともに陸海軍の合同兵力で推進されることになった。ミッドウェーは太平洋上の最西端に位置する拠点であった。日本にとってもこの地点を攻略することにより東京空襲の阻止はもちろんハワイの再爆撃も可能であった。当然この作戦は秘密裡に、しかも迅速に遂行されねばならなかった。

  ところが日本海軍が用いていた暗号はことごとくアメリカの暗号解読班によって傍受され、その全容はアメリカ海軍首脳部に筒抜けであった。日本海軍は秘密保持のため「JN25暗号」を定期的に変更すべきところを怠ったのである。

  本来、変更は4月1日の予定であった。これが5月1日に延期され、さらに戦闘開始直前の5月28日まで再延期された。このおかけで米暗号解読班は「JN25」を完全に解読するチャンスを得たのである。

  この暗号解読により日本軍が画策したアリューシャン列島への陽動作戦は全く用をなさず、始まる前からアメリカ軍にはわかっていたので、ニミッツは全力をミッドウェーに投入するために迅速な手を打った。6月4目の海戦に備えてフレッチャー少将の率いる第17機動部隊(空母「ヨークタウン」など)は日本軍に悟られることなく絶好の位置に待ち伏せすることができた。

  山本長官は暗号の変更を延ばし延ばしにし、アメリカ側に「MI作戦」の全貌を知らせた上で日本海軍の総力を投入し、その壊滅を策謀したのである。ミッドウェー作戦には、無能であり、しくじることがわかっている南雲忠一中将や草鹿龍之助少将を最も重要な機動部隊に起用し、自らは後方400キロの北西海上で旗艦「大和」や戦艦「長門」「陸奥」などとともに主力部隊にとどまり、これまた高見の見物をしていたのである。

  米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツは珊瑚海海戦で空母「レキシントン」を失い「ヨークタウン」を大破された第17機動部隊司令長官J・フレッチャー少将をハワイに急遽呼び戻し、さらに珊瑚海海戦に間に合わず無疵でいたハルゼー中将率いる第16機動部隊を合衆国艦隊司令長官E・J・キングの反対を押し切ってミッドウェーに急派、司令長官をハルゼーからレイモンド・A・スプルーアンスに交替させた上で空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の2隻を投入した。

  ミッドウェー海戦に投入された空母3隻のうち「エンタープライズ」は、真珠湾攻撃のときに取り逃がした空母のうちの1隻だった。

 

 山本長官は常に後方で高見の見物 

 

  この時点において日本側は「ヨークタウン」「レキシントン」の空母2隻は珊瑚海で沈没、「エンタープライズ」「ホーネット」もはるか南方海域にいるはずと固く信じていた。

  日本側は連合艦隊始まって以来の大艦隊を編成。山本長官の指揮下には空母8隻、「大和」、「武蔵」など戦艦11隻、巡洋艦22隻、駆逐艦65隻、潜水艦20隻など合わせて艦船200隻、総トン数150万トン、さらに飛行機700機を含めて動員数10万人の将兵という堂々たる陣容を形成した。

  これだけの大戦力を持ちながらミッドウェー海戦で日本側は大敗北を喫してしまった。この海戦で日本は虎の子の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を一度に失ったのである。アメリカ側の損害は空母「ヨークタウン」1隻にとどまった。このような大敗北は全く予期せざるものであった。

  日本は勝てる戦争を敗れるべくして敗れたのである。敗北の「大原因」すなわち戦略的失敗をもたらしたのは山本五十六であり、それは意図されたものだった。いくつかの予期せざる偶然、悪運が重なったとはいうものの、戦術的「大失策」を犯したのは南雲機動部隊司令長官だった。南雲は刻々と変化する戦況を的確に判断することができず、逡巡し、誤った判断を下した。本来の目的であったミッドウェー島の基地爆撃も、上陸も果たせず、アメリカの艦隊撃破にも失敗した。

  南雲の指揮した空母では帰投して上空で着艦を待つミッドウェー攻撃隊の収容と、第2次攻撃のための爆弾および敵空母攻撃のための魚雷換装をめぐって判断が遅れ、結果的に米艦隊の猛攻を受けて次々と沈没したのである。

 

  かろうじて山口多聞少将率いる空母「飛龍」が攻撃機を飛ばし米空母「ヨークタウン」に甚大な損害を与えた。6月7日、ハワイに向けて曳航中の「ヨークタウン」を日本の潜水艦が撃沈した。

  ミッドウェーで山本長官がなぜ空母部隊のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたのかは一種の謎であった。空母を中心とする機動部隊本務はそもそも制空権の獲得であり、敵機動部隊の撃破もその一環であるが、逆に攻撃を受けた時には艦隊防御能力は極めて低い。日本海軍の誇る戦艦「大和」「武蔵」「長門」など高い防御能力を持った戦艦群ははるか後方にあって、連合艦隊司令部の護衛などという戦略的に無意味な任務に就いていた。

  機動部隊の空母を防御していたのは駆逐艦など数隻であり、その陣容にも大いに問題があった。米機動部隊の陣形が空母中心におよそ1.5?の距離を保ち、1隻ごとに巡洋艦、駆逐艦を多数配置して輪陣を組み空母上空に濃密なる弾幕を張り、防御能力を最大限に高めていたのに対して、日本の空母は2隻並んでいる上にわずかの駆逐艦を横に配置しているだけであった。これでは空母に対する防御が手薄であり、米機にとっていかにも攻撃しやすい陣形になっていた。

  珊瑚海海戦で軽空母「祥鳳」が撃沈、「翔鶴」が大破するという苦渋を味わったのもこの艦隊防空能力の欠如であった。連合艦隊は1カ月前の苦い教訓を生かすことができなかったのだ。

  日本側が機動部隊に充分な対空防御能力をつけておれば、敵機襲撃に対しても時間的余裕が生まれ、空母での攻撃機兵装を大急ぎで取り替えるという混乱は起こり得なかったであろう。

  だが山本長官個人を守るために温存された強力な戦力はついに一度も投入されることなく、大事な空母を米機の攻撃にさらし、海の藻屑と消えさせたのであった。

 

 真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行     

 

  真珠湾攻撃のときもそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。山本長官の主張とは「昭和17年(1941年)中に米太平洋艦隊をおびき出してこれを撃滅する。そのためのエサとしてはミッドウェーが最適であり、ここを占領してハワイに脅威を与えればアメリカの戦意は著しく衰え、それによって和平交渉への道が開かれる」というものであった。

  だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。その第一の理由は「占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしい」というものである。ミッドウェーはハワイからわずか1800キロしか離れていないため、ハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、すぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても、日本の奇襲以来ハワイの基地を強化し続けてきた米軍にとって脅威にはならず、米国民の士気に影響を与えることはなく、従ってアメリカが和平交渉を提案することはあり得ない、というのである。

  また日本の偵察機の行動半径は20キロにすぎないので、広大な太平洋のまんなかで有効なる偵察任務は果たせない、と反論した。

  それよりもニューカレドニア、フィジー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断をはかるほうが戦略的価値は高く、アメリカ艦隊も本国基地から遠く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊をおびき出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線をおびやかされるためアメリカに救援をたのむのは確実である、と強く反駁したのである。

  ところが山本長官は、「敵の空母勢力を撃破すれば自ずから米豪間は分断されるので、まずミッドウェーで敵の空母をおびき出し、これを必ず撃破してみせる」と豪語したのである。山本長官の主張はかたくなにミッドウェー攻撃一点ばりであった。

  ミッドウェーがアメリカ最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利なことは一目瞭然である。にもかかわらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズヴェルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊をここで壊滅させる約束をしていたからに違いない。

  そもそもハワイ真珠湾で航空機による奇襲攻撃を実施し、航空機のもつ破壊力と重要性をわざわざアメリカに教えたことのみならず、生産力では圧倒的に勝るアメリカがこのことを教訓に大量生産のもと、航空戦力の飛躍的増大をはかったことは山本長官の決定的ミス(実は陰謀)ではなかろうか。以後アメリカはあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。

  ミッドウェー作戦自体も、真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊をおびき出した上で、これと決戦をするという2つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅できた場合は、続いて10月頃ハワイを攻略するというものであったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破壊に導くことであった。

  アメリカは充分に航空戦の練習を積み、山本長官のさし出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官はその反対にはまったく耳を貨そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。

  いくら連合艦隊司令長官が特殊な立場であり強い権限を持っていたからと言っても、大本営軍令部にこれほどまで楯つくことは異常であった。フリーメーソン山本長官はルーズヴェルト大統領(フリーメーソン33位階)やチャーチル英首相(フリーメーソン)との約束を死守したのである。

  ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を壊滅させた山本長官は、次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行ない、自らはアメリカ側と通謀の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。ではそこに到るまでのプロセスを見ることにしよう。

 

山本五十六は生きていた

山本五十六は戦死していなかった

ヤコブ・モルガン・著  第一企画出版  1995年刊

 

 悲劇のガダルカナルを生んだ大本営軍令部     

 

  ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じてまさにターニングポイントであった。この敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。それを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。

  「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が、米豪を分断するため、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。この島に飛行場を敷設し、強力な基地航空隊をおけば、南西太平洋の制海権(制空権ではない)が得られ、アメリカとオーストラリアの連絡は分断され、オーストラリア北東部は日本軍の攻撃範囲となり、ここに猛攻を加えることによりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和にもち込むことができればアメリカも戦意を喪失、日米の和平も実現できるのではないかと海軍は考えていた。

  (中略)

  ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、さらにのちのレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。

  山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。

  ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。

  戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは、その中で「山本長官はこの会戦をどう考えていたのか理解しにくい」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的なアメリカ人にすら全く理解のできないものであった。

  (中略)

  ガダルカナルおよびソロモン海戦で、日本軍は2万3800人におよぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻、それに航空機の喪失は1053機にも及んだ。

  昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁可し、翌18年2月1日から7日にかけて、3回の撤収作戦を実施、同島に取り残された飢餓と熱帯病のため生死の境をさまよいつつあった日本軍将兵1万有余人を救出したのであった。

  (中略)

  山本長官は昭和18年4月16日、北ソロモン諸島にいる将兵の労をねぎらい士気を鼓舞するためと称し、前線基地視察を計画した。。

 

 疑問だらけの死体検案書         

 

  こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。

  この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。

  山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。

  ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。

  米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。

  山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP−38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP−38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。

  右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。

  山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。

  大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。

  ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。

  「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた......その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」

  同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。

  にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。

  前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。

 

 戦死が狂言であったこれだけの証拠    

 

  山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。

 

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。

 

2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐

  (参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン

  劇を演出した。

 

3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目

  立たぬよう略装にした。

 

4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダ

  ルカナル島米軍基地へと逃亡した。

 

5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を

  座席に縛りつけ毒殺した。

 

6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。

 

7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工

  的な死後損傷を加えた。

 

  事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。

 

 戦後、「山本五十六を見た」という多くの証言   

 

  ここで「運よく」助かった宇垣纏中将とは何者かを知らなければならない。(中略)

  三国同盟締結の折は賛成派に回ったため山本長官にうとんじられているとも言われたが、どういうわけか昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐することになる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常にその意向を尊重し、補佐してきた。

  あれほど傲岸不遜な宇垣がなぜ山本長官に寄り添い続けたのか。そのわけは宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信したことにあろう。

  山本・宇垣のコンビは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。

  ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手はずを整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生きのびており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや、沖縄の沖合に蝟集する米艦隊めがけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、そのまま行方を絶った。日本の敗戦を見とどけて姿を消したと言うべきか。

  戦後、山本長官の姿をどこやらで見かけたと証言する人もおり、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営によって手厚く保護されるのである。

 

 ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから       

 

  ここで山本長官の果たした役割についてもう一度まとめてみよう。

  真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。

  日本人フリーメーソン山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。

 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。

 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。

  山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。

  ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。

  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

 

 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは           

 

  山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。

  この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることがフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。

  そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。

 

● 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。

  ただしその攻撃は不徹底なものとする。

    忠実なる配下の指揮官  

南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)

草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)

源田実中佐(第一航空艦隊参謀)

 

● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。

 

忠実なる配下の指揮官  

井上成美中将(第四艦隊司令長官)

原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)

 

● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。

   忠実なる配下の指揮官  

南雲忠一中将(機動部隊司令長官)

草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)

 

● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。

   忠実なる配下の指揮言  

 三川軍一中将(第八艦隊司令長官)

南雲忠一中将(機動部隊司令長官)

草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)

原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)

 

● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。

 

  いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。

  さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。

  長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。

  この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。

  山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。

  戦後の日本がアメリカに占領され、民族心をことごとく失うまでに洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家がこのような日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。

  日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。

  このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

 

山本五十六は生きていた

あの戦争は世界支配層のシナリオだった

ヤコブ・モルガン・著  第一企画出版  1995年刊

 

 今も作られている日本非難の大合唱      

 

  太平洋戦争は謎に包まれた戦争である。

  3年8カ月にわたって死闘を繰り広げたあの戦争で、日本の兵員死亡者数は117万4000人余、民間死亡者数67万人余、アメリカの兵員死亡者数9万2000人、他連合国の死亡者数17万人余、太平洋を舞台に、合わせて210万8000人が死亡した。このような大規模で非人間的な戦争がなぜ行なわれたのか、戦後50年が経過する今日、この疑問は深まるばかりである。

  太平洋戦争は人類の歴史始まって以来、世界最大の海戦であったばかりでなく、陸上の戦争としても他に類を見ない激しいものであった。それにしても、日本側のおびただしい兵員の死亡者数は一体何を物語るものであろうか。戦場に累々と横たわった日本兵の屍は次のことを教えている。

 

● 太平洋戦争は日本が敗北するために始めた戦争であった。

● 戦争を遂行した政府大本営、陸・海軍の戦争指導者たちは、あらゆる戦闘で敵に手ごころを加え、日本が敗北するように仕向けた。

● 日本が敗北することは明治以来の予定のコースであった。

 

 1994年8月15日、第49回目の「全国戦没者追悼式」が東京・九段の日本武道館で行なわれた。この日、ワシントンポストの東京特派員は次のように外電を発した。

  「世界のほとんどの国の歴史教科書は、日本が第2次世界大戦における侵略者であることを疑問視していない。日本は30年代に中国を侵略、さらに真珠湾などを攻撃し、戦争を太平洋全体に拡大した。日本のこのような行動はこの何十年、当地ではおおむね黙殺されてきた」

  また、オランダ人ジャーナリストのイアン・ブルーマは、近著『罪の報い』で、日本が戦争責任の反省を十分に行なっていないとして次のように語っている。

  「日本は自分だけが悪いのではないと泣いて地団駄を踏む子供みたいだ」

  今、日本に対する国際世論は実に厳しく辛辣である。米欧諸国はもちろんのこと、戦場となったアジア諸国からも日本の戦争責任を追求する声は一段と高まりを見せている。なぜ日本だけが悪いとされ、これほどまでたたかれるのか、その真の理由を日本人は知らない。

 

  戦争による多大な人的、物質的犠牲により、多くの日本人は戦争を忌み嫌い、平和を希求した。中でも広島、長崎に投下された2発の原爆により多くの貴い命を失った日本は、その強烈な核アレルギーとともに、戦争を指導した軍部、ファシズムといった戦前なるもののすべてが悪であると固く信じるようになったのである。

  けれども、その信念の強さとは裏腹に、日本人の多くが戦前の歴史、太平洋戦争の全容を知らず、真相に対して目を背けていることも事実である。

  戦後、日本人は荒廃から立ち直り、ひたすら経済復興に邁進し、いつの間にか世界第2位の経済大国となった。日本の潜在成長力とその民族的エネルギーはすさまじいものがある。その日本の台頭を好まない世界のある勢力が、日本の成長をいかに抑え、いかにしてそのみなぎる国力を抑圧するかに心血を注いできた。

  その一つの手段が日中戦争の泥沼化と日米開戦であった。日本は"計画通り"敗北したが、日本人の民族的エネルギーを止めることは誰にもできなかった。戦後の日本は再び巨大な経済力を身につけ、科学先進国、産業技術大国となったのである。

 

 日本をいつまでも侵略国にしておきたい理由           

 

  日本の台頭を戦前も戦後も決して許さない「世界支配層」、その中でも最も忠実な強権国家アメリカは、日本を非難し、排斥する。経済面での円高攻勢に加えて、アジア諸国をけしかけて日本の戦争責任を追求させる。

  日本を侵略国と断定し、戦争犯罪国としてとがめるためである。昨今の従軍慰安婦問題や軍票預金の償還など激しい抗議はその一環である。

  だが、歴史の真相を知る者は、アメリカこそが欧州大陸において無理矢理に第2次世界大戦を起こさせ、日本を太平洋戦争に引きずり込んだ元凶であることを知っている。

  アメリカの第32代大統領フランクリン・ルーズヴェルトはその張本人であった。そしてそのルーズヴェルトを陰で操ったのは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン勢力である。ルーズヴェルトはユダヤ・フリーメーソン33位階でもあった。

  アメリカ合衆国において下院議員、ニューヨーク州知事、上院議員、さらにコロンビア大学の理事長などを歴任したハミルトン・フィッシュは、94年間のその生涯において一貫してアメリカの良心を代表し、ルーズヴェルトの犯罪をあばき、告発し続けた。

  その偉大なる著書『トラジック・ディセプション』は岡崎冬彦氏の監訳で『日米開戦の悲劇』としてPHP文庫より出版されている。この書は、誰が第2次大戦を招き、いかにして日本とアメリカを戦わせるべく仕組んだかについて、ルーズヴェルトの謀略性を明確に証言している。(残念ながらこの本は既に廃刊になっています----なわ註)

  第2次世界大戦と太平洋戦争は、この大統領の陰謀によって引き起こされたと明言していい。

  ルーズヴェルト大統領およびハル国務長官は、真珠湾攻撃の直前の11月26日に、最後通牒であるハル・ノートを日本に突きつけてきた。これは日本が絶対に受け入れることのできない内容であった。

  その前日、ワシントンでは、日本外務省の暗号をすべて解読した上で、ルーズヴェルト大統領、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長による戦争賛成派内閣の会合が開かれた。議題は「いかにして日本をだまして戦争に陥れるか」であった。彼らは、日本軍が真珠湾を攻撃することを事前に知っていた。

  真珠湾攻撃の前日、日本外務省より駐米日本大使館へ送られた解読済みの暗号電報を見て、ルーズヴェルトは「これは戦争を意味する」と述べた。けれども、パール・ハーバーの太平洋艦隊司令長官キンメル提督やハワイ方面陸軍司令官ショート将軍に対して、ついに日本軍による真珠湾攻撃が事前に知らされることはなかった。彼らは大統領の陰謀を知ることなく、開戦直後に責任を追求され、解任されるのである。

  アメリカは対日戦に勝利することを確信していた。その理由は、山本五十六がフリーメーソンであり、その他にも日本には政界、陸・海軍に協力者は多数いたからである。

  日本を戦争に巻き込むことに成功したアメリカは、欧州での戦争に参戦する正当な理由を手にした。

 

 欧州戦争もルーズヴェルトが引き起こした     

 

  欧州における第2次世界大戦もルーズヴェルト大統領の陰謀によって起こされたものであった。ヒットラーのナチス・ドイツでは、ポーランドのダンチヒをドイツに帰属させるべくポーランドのジョセフ・ベック外相と交渉していたが、ルーズヴェルトは、ジョセフ・ケネディ駐英大使を通じてチェンバレン英首相に圧力をかけ、イギリスがドイツに対してもっと強硬な態度をとらなければ対英援助を中止すると迫った。

  イギリスはポーランドを防衛する力はほとんどなかったが、チェンバレンはルーズヴェルトの圧力に屈し、ポーランドに対して支援を保証した。これに勇気づけられたポーランドは、ダンチヒの帰属問題についてドイツと平和裡に解決することを拒否するのである。

  さらにルーズヴェルトは、「ドイツの陸・空軍力はヒットラーが言うほどの実力はなく、恐れるには足りぬ」としてフランスの対独参戦を促した。

  ルーズヴェルトはイギリスとフランスがドイツと戦争を始めれば、アメリカはナチス・ドイツを倒すために必ず参戦することを約束していた。

  1939年9月1日、ヒットラーの軍部はポーランドに侵入、ここに第二次世界大戦が勃発するのである。ルーズヴェルトの約束は、日本軍による真珠湾攻撃によって実現される。歴史上最も血に飢えた悪魔の大統領フランクリン・ルーズヴェルトはユダヤ人であったが、欧州でのユダヤ人虐殺を防ぐ人道主義のためには、指一本挙げることなく無関心を装い続けた。

  「世界支配層」に仕え、欧州大戦と太平洋戦争の両大戦を自らの手で演出したルーズヴェルト大統領は、大量のユダヤ人と日本人の血を犠牲にして、戦後「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンが支配する20世紀を築き上げたのである。

 

 おわりに 平成二・二六を起こすべき今の日本    

 

  アジアは古代より豊かな精神文明を育て、自然とともに生きてきた。アジア人の性格は温和で、人々は慈愛に満ちている。これにくらべ西欧人は物質的で欲深き人種である。物欲にあふれた西欧人が植民地を求めてアジア、アフリカ、中南米に殺到したのは16世紀以降であったが、中でもアジア人に対する抑圧と搾取は過酷を極め、容赦ないものだった。

  このような野蛮な西欧人をけしかけ、世界中の富や地下資源を略奪したのは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソンであった。アジア民族はまぎれもなくその多大なる犠牲となったのである。

  1995年は日本が太平洋戦争で敗北して50周年にあたる。日本ではこれから、先の戦争がいったい何であったのか、その歴史的意味をめぐって議論が続くだろう。日本人の思考はいま混乱のさなかにあり、太平洋戦争とそれに先立つ日中戦争の意味を理解できないでいる。

  日中戦争はアジアの完全支配を狙う「世界支配層」が、日中の協力者とともに推進した謀略の戦争である。アメリカやイギリス、そして数々のユダヤ・フリーメーソンたちが暗躍したこの不幸な時代は、不可避的に日中を闘争に導いた。

  平和を願う多くの人々の願いもむなしく、戦争製造者たちは世界支配の野望のもとに、いたるところで人々を戦火の中に追いやったのである。

  日中は決して戦ってはならぬ永遠の同胞である。けれども不幸なことに日本の内部にも、戦争を願う「世界支配層」の協力者と推進者がいた。そして、それは中国にも存在したのである。日中戦争は太平洋戦争への導火線となった。

  太平洋戦争はアジアの完全支配を企てる「世界支配層」の前に立ちはだかる日中を打倒し、屈服させるための明らかな罠であったが、勇猛果敢で無知な日本人はその裏に秘められた底意をしることもなく、無謀な戦いを挑み、そして予定通り敗れた。

  日本をおだて、操り、屈服させることはもともと「世界支配層」の遠大なる計画である。日本はそれを知らず、明治維新以来西欧(ユダヤ)の表面的な華美性に魅了され、あろうことか西欧的な帝国主義に走り、アジアに植民地を求めた。

  一方、多くのアジア諸国の中に「世界支配層」の走狗となり、イギリスやアメリカ、ロシアと通謀して日本を排斥する勢力が跋扈した。

  当時のアジアは西欧(ユダヤ)によって中枢が汚染されていたのである。日本が何もしなければ、朝鮮半島はロシア領に、中国および東南アジアは「世界支配層」のもと英米仏蘭により徹底的に分割支配され、現在のようなアジア諸国は存在し得なかったことであろう。

  「世界支配層」は最終的に日本を倒し、滅亡に至らしめてアジアの全域を略取する計画であった。日本が太平洋戦争を決意できずに屈服しておれば、米欧(ユダヤ)は労せずしてすべてのアジアを征服し、日本は弱小国に転落していたことであろう。

  だが日本は戦争によって事態を打開しようとした。戦争没発の背景には、「世界支配層」と米英の謀略があったことは明らかであるが、日本側にも戦争推進に協力した一群が存在したことは事実である。彼らは勝利のためではなく敗北のために戦争を遂行し、そして戦後最大の功労者として「世界支配層」やGHQより数々の報酬を受けることになった。

 

山本五十六の大罪

WILL  2008年8月号  「天地無用」

 

推 進

  大東亜戦争が国民を悲惨な窮状に陥しいれた根本の真実が、今ようやく中川八洋(『山本五十六の大罪』)によって曝露されている。良識派として偶像化されている米内光政が、実際に採った行動は以下の如くであった。

  昭和12年、廬溝橋事件を引き起こした運命の一発が、毛沢東の軍隊による仕業であった事実は周知であろう。しかしこの悪辣な罠を警戒した日本陸軍では1カ月後もなお不拡大派が主流であった。しかるに8月10日の閣議で、海軍大臣米内光政は上海への出兵を強引に要請する。8月12日、米内は首相近衛文麿の支援を得て二個師団出動を決めさせた。

  それのみならず8月14日の閣議で米内大臣が「南京占領」を唱えている。このとき外務大臣も陸軍大臣も反対した。すなわち南京占領に至る上海戦を推進した筆頭が米内光政である。興奮した米内は総理でもないのに8月15日午後7時半、「頑迷不戻(ふれい)な支那軍を膺懲(ようちょう=こらしめること)する」と、支那(チャイナ)への宣戦布告とも見倣し得るラジオ演説までした。のち無駄な戦死者を増やすのみであった「特攻」作戦を裁下した高官5名の1人が米内光政であった事は否定できない事実である。

 

怯 懦

  中川八洋の調査によれば、山本五十六の行動は奇怪きわまる。

  彼が発案した真珠湾奇襲作戦は海軍部内の承認を得た検討の結果ではなく、及川古志郎海軍大臣に送った書簡一通によってのみ伝えられたにすぎない。事実、山本が奇襲部隊の出撃を敢行したのは、ハル・ノートが日本側に手渡されるより以前であった。この奇襲が何等の戦闘的実効をもたらさず、遂に米国の戦意を高めるのみに終わったのは申すまでもない。

  そして日本の敗北を決定的にしたミッドウェー島攻略作戦の時機に山本は何処に居たか。真珠湾の時と全く同じ、聯合艦隊の司令部を瀬戸内海に置き、戦艦「長門」「大和」「武蔵」と居を移しつつ、賭博好きの本性を顕してカードに耽り、将棋をさして優雅な生活を送っていた。

  ミッドウェー海戦の大敗北のあと、その責任をとるどころか、日本国内に対して敗北を隠蔽するのに腐心する。空母4隻から生還した第一級のパイロットたちをバラバラにして次々と遠方の前線に配属し、生証人が残らないように死線の境に送り込んで敗戦を帳消しにした。

 

欺 瞞

  昭和19年、台湾沖航空戦の報道では、大本営海軍部の発表を丸呑みする各新聞によって次の如き戦果が謳いあげられた。

  すなわち、撃沈は空母11隻/戦艦2隻/巡洋艦3隻、撃破は空母8隻/戦艦2隻/巡洋艦4隻、記録的な大勝利である。しかし中川八洋の解明するところ実際は、米国の空母も戦艦も、1隻たりとも撃沈していない。米国側で被弾大破したのは巡洋艦2隻のみであった。これが日本海軍の戦闘機300機以上と、同数のパイロットを失った末の代償であった。大本営の嘘もすでに極限に達していたのである。海軍は昭和天皇と国民を終始欺き通した。

  陸軍は海軍が公言したこの虚偽戦果に基づいてレイテ島作戦を立てた。その結果は8万人部隊の97%以上の戦死者を出した史上空前の全滅である。これらの悲劇を生んだ嘘の提造はすべて大本営海軍部の画策であった。

  戦後、旧海軍の連中が記述した内容が虚偽とねつ造に満ちている実態を中川八洋はごっそり調べた結果を要約し、それらがことごとく嘘と脆弁によって構成されている内幕が実証された。これら綿密な証明に接すれば、誰でもが寒疣(さむいぼ)の立つ思いを味わうであろう。

 

● ミニ解説 ●

  山本五十六はフリーメーソンであり、日本を敗戦に導くために大きな役割を果たした人物です。そのため、真珠湾攻撃の発案者でありながら、東京裁判では全くその罪を問われることなく、戦後も"名将"であったかのような報道や出版がなされています。世界を支配する闇の権力に高く評価された"功労者"だからです。

  山本五十六は戦地で敵戦闘機に攻撃されて死んだことになっておりますが、これが偽装死であることは『山本五十六の最期』(蜷川親正・著/光人社NF文庫)を読むとよくわかります。海軍の中枢のほとんどが世界支配層によってコントロールされていたということです。

 その結果、戦後東条英機を初めとする陸軍は徹底的に戦争犯罪人として断罪されていますが、海軍にはそのような批判は寄せられていません。しかしながら、アメリカとの戦争の火ぶたを切ったのは真珠湾攻撃なのです。山本五十六は、アメリカが国内世論を第二次世界大戦への参戦に導くための口実をつくった立役者なのです。その真珠湾攻撃で、山本五十六が「自ら指揮を執るから」と言っておきながら、実際は瀬戸内海に浮かぶ戦艦の中で悠々と過ごしていたことがわかっています。

  以下は、その事実を明らかにした中川八洋氏の『山本五十六の大罪』(弓立社)の中の一文です。

 

■怯懦に生きた"世界一の臆病提督"山本五十六

 

  山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、現場指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、"卑怯"の2文字を絵に猫いた、史上最低の高級軍人だった。連合艦隊司令長官でありながら、空母六隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日々を過ごしていた。

  1905年5月の日本海海戦で、東郷平八郎が旗艦「三笠」の艦上ではなく、佐世保(長崎県)港に浮ぶ軍艦の一つで読書しながら、ただ吉報だけを待っていたなど、想像できようか。あるいは、1805年のトラファルガル海戦で、「隻腕の大提督」ネルソンがロンドンから指揮を執っていたなど、歴史の if としても考え付くものはいまい。

  しかも、パール・ハーバー奇襲は、山本五十六本人の発案である。自分が陣頭指揮を執るからと、海軍全体の了解を得たものである。ところがいざ出陣になると、山本は、「公約」を破り捨て、"率先垂範の指揮"という海軍伝統をも無視し、カード三昧の日々であった。

 

■山本五十六は死刑----海軍刑法第四四条

 

  1942年6月のミッドウェー海戦の場合はもっとひどく、山本五十六の指揮官としての臆病ぶりは、日本の戦史にも世界の戦史にも、こんな武将は前例がない。山本は、世界史上、"最悪・最低の狂将"だった。織田信長や豊臣秀吉はむろん、徳川家康や黒田如水ですら、即座に切腹を命じただろう。山本五十六を「スーパー臆病」と断定してよい理由は、以下の通り。

  第一は、ミッドウェー島攻略戦の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦「大和」に坐乗しているのにもかかわらず、空母四隻の前方にいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母4隻よりはるか後方540?に「逃亡=職場放棄」していた事実。

  第二の理由は、4隻の空母の、3隻(赤城、加賀、蒼龍)が轟沈していくとき、山本五十六は、「遊び人」らしく将棋を差していた事実。前代未聞の「職務放棄」。

 この「職場放棄」と「職務放棄」は、海軍刑法第四四条、もしくは第三八条の定めに従って、山本五十六の罪は死刑である。

 

第四四条 指揮官はその艦船軍隊を率い 故なく守所もしくは配置に就かず またその場所を離れたるときは左の区別に従いて処断す

 1、敵前なるときは死刑に処す

 (以下略)

                 ---- 『山本五十六の大罪』(中川八洋・著/弓立社)

 人問の体内時計は124.8時間。それが24時間自転に変わったときから、イライラが始まり、戦い・病気も始まった?

『超古代24.8時間 文明の謎』平田穂生/著(廣済堂・1998)引用および資料。

 

(1)フリーラン実験

人間を太陽光線や月光の変化から遮断し、時計・テレビ・ラジオなど「時刻」を暗示するもののすべてから隔離してしまう。

そのような空間を「フリーラン」......日本語では「自由継続」というらしい。外界から刺激されない「純粋な時間の継続」という意味であろう。

(アメリカで)そのフリーラン空間に人間をおいて、生活を長期観察すると、どういうわけか、だんだんと人間は25時間...正確には24.8時間前後...の周期で生きていくという。その実験は、人種には関係がないようだ。人間の体内時計は124時間ではなく、24.8時間なのであろうか。

いろいろな生物の「概日リズム」が24時間といわれているのは、ほとんどが太陽や月の運行にさらされてのことである。

 

(2)地球は124.8時間で自転していたか?

 

 人間の生理活動は、宇宙・大自然に順応・呼応し、人間の生理周期は、太陽・月・地球の周期作用に大きく影響されていると考えるべきであろう。何故ならその環境の中で『生命体』は発生し、存続しているのだからだ。

 そこで、フリーラン空間での実験結果を受けいれなければならないとすれば、唯一の考え方がある。それは、人間が進化していく過程で、地球の自転速度が、今日の時計ではかると124.8時間であったのではないかということだ。

 人間の遺伝子に、124.8時間リズムが刷り込まれた後に、一大天変地異がおこり、結果として地球は今日の自転速度におさまったのではなかろうか。

その新しい自転の時間を、生活の便宜上24分割したのが、今日、私たちが使っている「1時間」である。

 

(3)地球の自転速度は変化するものなのか?

 

『月』(古在由秀著・岩波新書・1968年版)によると、明確に、地球の自転速度が刻々と変化していることが書かれている。

 そのころまでは、天文学者は「地球の自転速度の変化」など、考えてもみなかったようだ。しかし、現今の天文学ではいろいろなことがわかってきた。

 

たとえば、何億年間にもわたる自転速度の変動は、珊瑚の化石を調べることによって見当がつくという。珊瑚は樹木のように年輪があるのだが、昼と夜とでは成長の率がちがうため日輪とでもいうべき輪が現れるものもある。1年間に成長した部分は年輪を見ればわかり、その中に見える日輪を数えれば1年間の日数を計ることができる。そのような観測を35000万年前の珊瑚の化石で行なうと、当時は1年が400日で、1日が22時間たらずであったことがわかってきた。

 

 月食の記録など厳密に計算すると、地球の運行速度は100年間に1000分の1秒だけ遅くなっている。2000年前の1日の長さは今より100分の2秒だけ短かった。これは、2000年間を通して全体に2時間だけ短くなったことを示している。試算では、30億年前は1日の長さが5時間くらいであったらしい。ともあれ、地球の自転速度が変化しうるということは、常識としてよいようである。

 

(4)3万年前以降の一大天変地異

 

 億年単位で観察すれば、地球はすこしずつ自転速度を横慢化させていることは理解した。しかし、100万年単位、1000万年単位で考えれば、突然の急激な「地球自転速度の変動」というのは、十分にありえるのではなかろうか。

 

 地球自身の46億年の歴史を考えれば、地球は何百万回となく爆発的に自転速度を変えたことであろう。地球の質量が一定不変ということはありえない。流浪する星屑を引力圏内に取り込めば重量は増え、また、壮大な冷却ドラマの中で「マグマのガスぬき」がおこり、そのちぎれガスが引力圏外に飛散すれば、地球は身をゆさぶって軽くなる。

 地球の重さの変化で、太陽とのバランスを失ってはならないから、地球は重くなれば鈍く自転し、軽くなれば自転速度を速めるであろう。

 

 地球そのものの歴史はおくとして、地球の変化と人間の変化について考えみよう。問題は、はたして、人間が人間らしくなる過程で、そのような一大天変地異が起こったかということである。

 また、人間が人間らしくなる時期を、今から300万年前とするか、30万年前とするかであるが、私は、人間が明らかに文明をもっていたとみられる3万年前あたりからを考察の対象にしたい。要はホモ・サピエンス(新人類)が発生した後と考える。この3万年前から以降に、はたして、一大天変地異があったのであろうか。

 

◆地球は何度も天変地異が起きてきた

 

 私たちは、火山の大噴火を、間接的にまた直接的に、しばしば体験している。噴煙・粉塵が成層圏にまで立ちのぼり、偏西風にのって世界中にひろがり地球の温度を低くしたという記録も少なくない。それらの事象を考えると、何百万トンという物質が一挙に地球引力圏外に吹きとばされるということは十分にありうることであろう。そのような場合、もちろん、地球も無傷ではいられない。海面の異常隆起、...一夜にして大陸が沈没し、一朝にして半島が浮上するということもおこりえよう。

 

 地に這うものにとっては、天と地の動転と思われたのではなかろうか。生物の多くが滅亡した。何億年前から再々の生き残りを経験しているものは、地にもぐり海底にしがみついてやりすごす。経験の浅い人間は大量に殺され、文明も根こそぎに破壊された。

 やがて、水がひき、天は天となり、地は地となって、生物もよみがえる。人間の文明はなくなってしまったが、人間の知恵のかけらは残った。

 では、地球は平穏になって、何が本質的に変わってしまったのか?

 

◆地球が軽くなれば1年日数はのびる

 

 地球が軽くなる......地球の自転速度が速くなる......速くなりながら太陽の周囲を回る公転軌道を変えまいとすると、必然的に1年日数が長くなってくる。

 では、124.8時間自転周期から124時間自転周期に変わったとして、実際には、どのくらい1年日数はのびたのであろう。現実には、私たちは現在の1年日数と1日時間を知っているので、計算としては、一大天変地異以前の124.8時間自転時代の1年日数がどのくらい短かったかを算出することになる。

 

 今日の地球の1年(公転日数)は3652422日であり、自転の時間は24時間である。

 

  365.2422日×24時間=8765.8128時間

 

 すなわち、公転総時間数は8765.8128時間となる。そして、「マグマのガスぬき大噴火」以前は自転時間が24.8時間だったのだから、逆算してみよう。

 

  8765.8128時間÷24.8時間=353.460

 天変地異以前の1年日数は353.460日だった。

現在の1年日数365.2422日と比較すると、11.7822日短い。

 

◆『太陰暦』と『太陽暦』が一致していた時代

 

 さて、「地球の自転が24.8時間の時代、1年日数が353.46日」この「353日」という数字にハッとされたのではないだろうか。

 今日、地球から見て、月の新月→満月→新月の運行は平均29.53059日である(月はふらつきながら地球をまわっている)。この29.53059日の12倍は354.36708日。この数字が太陰暦の1年日数である。

 

地球の自転が24.8時間時代の1年日数は353日......これは、太陰暦の1年日数354日と1日のちがいである。

 

 おおざっぱにいえば、一大天変地異のおこる以前の『太陽暦』1年日数と『太陰暦』1年日数は、ほぼ一致していたということになる。

 太陽・地球・月の運行は12という数字を媒介に完全に『シンクロ』していたと考えてよいのではなかろうか。

 

 または、月の運行は不動であったとした場合、月の1年日数を基準に地球の自転を計算すると、124.736時間という数字がでてくる。

 

『フリーラン』で見た124.8時間とほぼ近い。

 月は、地球に対して、いつも、その半面しか見せない。それは、太陽から見て、月が地球のまわりを回る「月の公転」と「月の自転」が同じ周期となっているからである。この「月の公転と自転の一致」は偶然ではなく、月がひきおこす潮汐のため、長いあいだにそのような同調現象がおきたようだ。

 

 月の大きさの400倍が太陽の大きさ......地球から月までの距離の400倍が太陽までの距離......

 

 だから、地球から見て、月と太陽の大きさが同じくらいに見えるのも、天体の美学であろう。太陽・地球・月の運行がみごとな調和をみせていた時代......それは、なにかすがすがしいような気分(人間にとって)をもたらすような時代だったのではなかろうか。

 

月の潮汐力は太陽に比べ約2倍の力がある。満月と新月は、月と太陽の潮汐力が重なり合ってさらに強くなる。そこで、満ち潮=生命が誕生、引き潮=死亡、とも深い関係があるとされている。

 

 さらに、人間の場合『打ち寄せる波の数』(1分間約18回)の2倍が健康体温『36℃』、その2倍が健康脈拍数『72』、その倍が血圧『144』、その倍が、妊娠出産までの日数『288日』とも言われる。

 そしていちばんシンクロしているのが女性の生理現象は『月経』というようにほぼ29日周期で月の『新月→満月→新月』日数である。

 

 そのように、地球の生物は月の大きさ、距離、自転、公転によって生かされているといって過言ではない。 月の運行を基準にした太陰暦は西暦1872年(明治五年)まで日本で使用されていた。新月を1日(ついたち)とし、満月を15日とする決まりで、たとえば、715日を盆おどりの日と決めておけば、盆おどりの日はかならず満月になるしくみである。

 

そして、庶民はカレンダーや時計などほとんど持っていなかったので、『月』を見ることによって、大まかな日付が分かる。

『新月』(何も見えない)1日(朔)、...右下部から少しずつ見えてくる。...三日月(3日)、上弦の月(7,8日)、十三夜(13日)、小望月(もちづき・14日)、満月(15日)、...右上部から少しずつ欠けてくる...十六夜(いざよい・16日)、立待ち月(17日)、居待ち月(18日)、寝待月(19日)、下弦の月(22,3日)二十六夜(26日)、そして新月へ。とつきの形でほぼ当日の日にちを知ることができる。

 

今日、私たちが使用している太陽暦は1年日数を365日と規定している。が、カレンダーがなければ太陽暦の当日の日にちを知ることはできない。

 

ユダヤ教、イスラム教など今も『太陰暦』を使う地域も多くある。ちなみに、(太陽暦の)9月の第1新月が『新年』である。大体91日ごろ。それから10日まで新年の行事(祈り)が続く。そして911日実際新年の実働が始まる。

9.11」がなんとなく引っかかる。

 

この、つきと地球がシンクロしていた時代が崩れた頃から、人間は得体の知れないイラつき、それが元で病気や争いが始まったと考えるのである。

 

ずいぶん以前に『バイオリズム』という表があったが、あれはその人の生理リズムを、中心線を境にプラス・マイナスに交差しているもので、その日、時間のグラフの位置で『陽・陰』の状態を見るものである。

 

私は自分のリズムが、124.8時間でサイクルしているのではないかと考え、自分の表を作ってみた。すると、昼なのにとても眠かったり、夜なかなか寝付けないとき、その表での時間はやはり、その『誤差』によって昼と夜が逆転していることが多かったのである。

人類には1日24.8時間のDNAが備わっているという説は、かなり真実味があるようだ。

 

だから、カレンダーに「旧暦(太陰暦)」や、「月の形(満ち欠け)」を入れることに、こだわったのです。

 

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