私の「遊び論」の最近のブログ記事

 

日本人の「単位」が変わった頃から、「心の秤」も消えた?

それぞれの国民は、それぞれの「単位(度量衡)」で生きてきた

 

■「義理」の重さを量る単位もありませんが、あの人は「軽い人間」とか「重役」などと、体重とは関係なしに「重い・軽い」と言ったり、「短気」「気長に待つ」、「深い考え」「浅知恵」などと、時間、距離の「単位」ははっきりしなくともその「状況」をそれなりの「基準数値」で測り、表現します。実は、これらの日本(広くはやや東洋的)の「測定」には全て「基準」となる数値が奥にあって出来上がったものばかりです。要するに、普通では測定できない「モノ」でも、「心や慣習としての秤」で計ることをしてきたのが日本人です。

 

◆例えば「軽い人間」とはそもそも人間の身体は頭部が全体の体重のかなりを占めていますので、あまり思慮分別のない様な人を指すのです。「重役」は一般雑兵と比べると頑丈で重たい鎧兜をつけています。「短気」な人は、「経文」を読む時間を我慢できないような人などを指します。

 

■それは、長い間の、「一定した」「単位(度量衡)」によって、生活習慣として培ってきたのです。これを、明日から「一メートルは二メートルの長さだ」、「一キロは三キロの重さだ」と変えてしまったら大混乱するでしょう。

 

■ところが、実際日本ではそれが起きたのです。1985年(明治十八年)にメートル条約に加盟、翌年四月十六日公布しました。しかし長い間日本独自の単位を使ってきたものは変えることは出来ず、ほとんど、従来の「単位」を使っていました。さらに大正時代にも強く法令化したのですが依然普及しませんでした。第二次世界大戦後、1959年(昭和三四)「メートル法」以外の単位を認めないとし、1966(昭和四一)に「土地建物」の単位切り替えを経てやっと「強制的?」完全実施をしました。

 

■ところが、今もなお、アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダなど多くの国々が「メートル法」に加盟しているのに、自国内ではメートル法単位を使っていないのです。(ただし、「時間単位」である日付、時、分、秒はほぼ国際的に従っています。)

 

■私が幼い頃(昭和三、四十年代)でも、普段の生活ではほとんどみんな日本独自?のいわゆる「尺貫法」で、容量は「合」「升」「斗」「俵」と、「リットル」ではその量を実感できませんでした。

 

特に今、「お米」を重さ(kg)で販売されていると、何人(食)分あるか、炊飯の水加減など、やはり「合」「升」でないと判断できません。実際、今も炊飯器にも「◯合炊き」と表示されています。また、当時は、お酒・醤油・油など1升ビンを持って行き、お店も「量り売り」で、それぞれ適量の「舛(ます)」を使うのではっきりしました。

 

 

量り売り.jpg

■重量は「kg」ではなく「匁(もんめ)」「斤(きん)」「貫」でした。魚や果物などほぼ「百匁(め)単価」量り売りで、「何円分だけください」などと言えば、予算に合うように「秤」を使い量を加・減して「釣り合い」をしてくれました。だから最後の微調整が「お釣り」というのです。

 

 

 

 

魚計り.jpg

◆さらに、なかなかメートル法に「換算」できないのが土地の「面積」です。田畑は(「坪」)「畝」「反」「町」などでないと、アール、ヘクタールではどれほどの広さか見当が付かなく、田植えや稲刈りの時など仕事の予定も立ちません。家の広さも、畳、間(けん)でないと分かりません。

◆着物生地も広さを表す「反物」と言い、和裁では「寸・尺」単位で、襟幅などつけます。

 

■私は10数年ほど前、靴屋さんに行き、今まで履き馴れていた自分のサイズを探しましたがなかなか見つからず、若い店員さんに「あの〜、十文七分はありませんか」と尋ねると、「えっ?何ですかそれは」と言われました。今はcm表示で、調べてもらうと約26・5センチの製品とのこと。

 となると、ジャイアント馬場さんの「十六文キック」という『単位』ではいかに大きいかの驚異には感じないでしょうね。

 

◆ただ、履き物のサイズが、金銭(文・分)単位なのは、下駄の大きさからくる「桐などの部材」値段差から来たのでしょうか。

「代金」のことを「お足」と言い、予算が不足したら「足が出た」とも言います。

 

■結局、日本の単位が薄れると、「一寸法師」、「一寸の虫にも五分の魂」、「悪評千里を走る」「五里霧中」「寝て一畳、起きて半畳」、「間尺に合わない」、「花一匁」など、昔話やことわざ、衣・食・住の文化、伝統、語彙、あそびまでが廃れる気がします。やはり日本人の生活の中で使われてきた「単位」が薄くなった頃から「心の秤(単位)」までおかしくなったような気もします。

 

アメリカやイギリスなどずっと植民地支配帝国主義だった国は、自国古来の単位を堅持して、伝統・好戦的精神的特徴?を守っているようです。

 

メートル法は国際単位ではない?

 

■「国際化」「グローバリゼイション」とか、「欧米に比べて日本は遅れている」などの言葉に、錯覚?させられてなんでもかんでも「欧米追従」のような社会風潮を取ってきたばかりに、人間社会にもっとも大切な「モノの量」という「秤」さえ失ってきたように思います。

 

◆十八世紀の末期、度量衡の単位を国際的に統一するためフランスが作り上げた単位系が「メートル法」です。それは十八世紀に入ると、西洋諸国は世界中へ進出、侵略、植民地、貿易が盛んになり、地図を調えたり、各国との貿易による「度量衡」の混雑があったからです。単位系を国際的に統一する必要性は学者から一般の人達も感じられ、1790年、フランスの議会で「新しい単位系」を創設する任務をパリ科学学士院に与えられました。新単位系の基礎として、地球子午線長の四分の一を取り、パリを通る線に沿ってダンケルクとバルセロナ間を実測しましたが、色々な支障困難があり、1798年に作業が終了しました。また質量面でも氷点を〇度とする「摂氏」で、蒸留水の質量を測定するなど同時進行しました。そしてフランスはこれらの作業をより国際的にするためにイギリスとアメリカに協力を求めましたが、いずれからも拒否され、メートル法の設定作業はフランスが単独で進めました。

 

 そうして1793年フランス国民議会によって採択され、この単位系は「十進法」で、長さ「メートル」、面積「アール」、体積「リットル」、重量(質量)「グラム」(後にキログラム)とし、今日の原型となっています。単位の名称は各国の国民感情を配慮して、全てギリシア語とラテン語によっています。

 

◆実測の結果に基づいた「新原器」は白金で造られ、フランスの文書保管所に納められてメートル法は実質的に完成しました。

 

■しかし、今も国連加盟国数から言えば約半数ほどしか加盟していません。またアメリカ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、カナダ、など加盟はしているが単位そのものを使用せず、従来の「ヤード・ポンド法」を使用し、国際的貿易などの場合、メートル法単位で換算しています。また1985年国際メートル法会議でも、イラク、ギリシア、ニュージーランド、エチオピア、サウジアラビア、パキスタン、ラオス、ソマリアなど多くの国が加盟もしていない。

 

■そこで、不思議なのは、「アメリカの牛肉〇〇t(トン)が輸入されました」とか、「新建築基準法によってアメリカの建築資材が大幅に増えた」といわれますが、日本向け輸出の場合は、「メートル法」で重量を量ったり、鉄筋の直径など「特別」に作っているのでしょうか。「耐震偽造問題」でかなり米国製の建築資材が使われているというのに、「直径32ミリの鉄筋を使うところを26ミリ(?)しかないのを使っていました」と確かに「メートル法」の単位で言っていたのです。アメリカでは「インチ」のはず?です。それをアメリカ国内用はインチで作り、日本向けはミリで作らなければならなかったら、工場の設備は大変でしょうね。ある一級建築士の人に「新建築基準法ではインチやポンドを使っても良いことになっているのですか?」と尋ねたら、「いや、メートル法の、JIS(日本工業規格)だと思いますが、私達は全てメートル法で設計していますので、考えもしませんでした。今度調べてみます」とのことでした。

 

日本人は、昔の「尺貫法」と「メートル法」をうまく使い分けたほうがいいと思います。江戸時代の大名の石高にしても「1石」とはお米がどれくらいの量なのか知らない子供がいっぱいです。

 

ここでは「換算表」は書きませんが、常に頭に入れておくといろんなとき便利です。 

■「センス・オブ・ワンダー」とは、「感動=ワンダー」(感動がいっぱいなのはワンダフル)する「センス=感覚」ですが、ワンダーには「不思議だなー、なぜだろう」(おかしい、間違っているようだ)などの「不思議がる」感覚の意味もあります。それは「真実」に感動するからです。

 

●そして「自然科学」というように、ほとんどの科学、物理、数学などの「定理」「理論」の元になっているのは「自然」です。文化面(文学、俳句、短歌、音楽、美術など)においても自然現象が基本と言えます。自然は「不変」だから「自然」なのです

 

■地球誕生から四十六億年間、色々な生物の進化や地殻変動はありましたが、一年三百六十五日、一日二十四時間ほぼ狂いなく時を刻んできました。もちろん「四季」もです。それらの時に合わせて動・植物も営みをしてきました。

◆「自然」にふれることで「真実」を知ることができるのです。「真実」はとても心を打ちます。そして「感動」します。

 

■自然界の中で人間だけがややもすれば「虚」「反倫理観」のことが多いのです。

 江戸時代「士・農・工・商」という身分制度がありましたが、「商」が最も身分が低いとされていたのは、「人が作ったもの」を仕入れて「利益」を乗せて売って儲けたり、利子を取って金貸しをしたりするのが、極端に言ば、当時の日本では「倫理」に反する行為だったからです。

◆キリスト教でも、利子を付けた「金貸し」は禁止されていました。

■もちろん「商売(現在経済活動)」のすべてが「虚構」ではありません。しかし、現代の行き過ぎた「マネー社会」ではかなり「虚構」がまかり通っているようです。そして多くの人が虚と気付かずにいます。私もついその気になったこともしばしばです。

 

◆しかし、幼い頃からずっと「自然」にふれてきたせいか、「真実」と「虚構」をある程度選別できるようになりました。「センス・オブ・ワンダー」をたくさん発揮しているからです。それを身に付けるには「自然体験」しかないのです。

 

■織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめとした天下人を含め、地方の有能な諸大名や城の重臣、大商人、明治維新のヒーロー達...、歴史上の偉人と呼べる人達は、当然義務教育も大学もなかったのに、地理、歴史、兵法、作戦、経済などから、夏目漱石は、幕末生まれで英語教師になりました。彼らはおそらく現代人より知識(勉強の仕方が違う)があったのは、幼い頃からの「自然・体験」だと思います。

 

さらに、近代でも松下幸之助氏、本田宗一郎氏、田中角栄氏、など「尋常小学校」卒でも然りです。

 

■また、自然は「裏切らない」ことを知ることによって、自分もまたそれに報いるために「努力・勤勉・忍耐(待つ)」の心をもつことができます。

 

 言い替えると、自然ではなく、だれかが作った「人工(モノ・情報)」に心を動かされたら、中には必ず「虚(だまし)」「失敗物」が存在します。いわゆる「不自然」だからです。すると、裏切られたり、失望する羽目になり、悪くするとなにもかも信じられなくなって「反発」「報復」「失望」することにもなります。

 

■勉強でも仕事でも、成果を「信じる」ことで努力するのです。

 

では「信じる」という感覚を身に付ければいいのですから、必ずウソを言わない自然と接することでそれができるのです。そしは確固たる「信じる理由(摂理)」を見極めることができます。オタマジャクシには「必ず」足が出てくる。水辺の「やご」は「必ず」トンボになる。冬のあとには「必ず」春になる。「すみれ」の茎から「レンゲ」の花が咲くことはありません。

 

■また「信じる」心が増えれば増えるほど、「ウソ・だまし・間違い」を見抜くことができるようになります。なぜなら、信じるに足る「理由(原理)」を分析できるようになっているからです。

 

◆しかし、これはそれを念頭に置いて身につくものではなく、あくまで、自然の中で実際、無数のことに興味と感動を体験していくうちに、まさに「自然」と身につくものだと思います。

 

「こうすれば、こうなる」...英語を覚えると「国際人」になる。高学歴は高収入職業になる。などは全く「定義」付けできません。

 

■かの、「レーチェル・カーソン(アメリカ)」女史が提唱した「センス・オブ・ワンダー」は、彼女自身が1960年代亡くなる前に子「最近供たちにセンス・オブ・ワンダーが少なくなってきている」と警鐘を唱えていました。私が高校時代(十五歳ぐらい)です。その頃三歳ぐらいの人が今四十歳台。その後ますます「自然」とふれあう子供達は少なくなってきました。未就労者、失業、フリーターはちょうど四十歳代から三十歳代がいちばん多いようです。

◆それと比例して、日本も米国も世界経済はどんどん悪化してきました。しかし家計に占める教育費は伸びているのです。何が一番の勉強なのかです。

2009年4月

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