私を語るの最近のブログ記事

脳出血で病院へ運ばれ、治療がはじまったときからの続きです。

この経験をしつこく書くのは、私は56歳の時発症したのですから、だれもがその可能性を持っていると言えるからです。皆さんも参考にして欲しいと思ったので書きました。あれから2年で再発もせずほぼ快復しています。

それは、発症から約340分で病院へ着いたのが良かったとも言われました。その時間を「ゴールデンタイム」と呼ぶそうです。

プロレスラーの何とかさん(知らないですみません)もそのゴールデンタイム内に病院へ行ったから今復活しているとの事。

ただし、もっとも大切なのは自分自身がパニックにならず、冷静に対処することだと思います。私の場合、いろんな状況を経験していますのでほとんど「どうなるのか」とか「どうしよう、恐い」とかほとんど考えませんでした。これが言いたいことです。「ふるさと子供シリーズ」3作で書いているようにいろんな経験・体験をしているとそんなにあわてないようになるのです。

 

担当の医師に「何が一番の原因ですか?」と訪ねましたら、「一番はストレスで、あとは肥満などから来る高血圧です」と言われました。

 

ただし、ストレスにはいろいろあって、きつい、辛い、不満等やマイナスのストレスを一般的には連想しますが私はそのようなストレスを感じたことはあまりありません。実は「大きな喜び」も大きなストレスになるとのこと。例えばゴルフでホールインワンをしたりすると、あまりにもの嬉しさで脳卒中を起こす人が結構いるとのこと。 

私の場合もその後者だったのかも知れないのです。発症2カ月ほど前に、企画提案コンペで認められ研究費60万円を受賞したり、熊本日日新聞社の著名人が連載される「私を語る」を依頼され執筆を始めたこと、テレビ出演、本がどんどん売れたこと、楽しい仕事も続々入ってくるし、いちどきにラッキーなことがドーンと重なったのです。何もかも楽しい気分でした。

 

 ところが、実はずっと以前から(いつ頃からかは不明ですが)血圧が高かったのです。

 

5年ほど前近くの薬局に行き、「目が充血しているので血圧を下げる薬はないですか」と尋ねると、薬局の人は「それは血圧だけのせいではないですよ。そこに置いてある血圧計で測ってみてください」。初めて血圧計を使いました。上が254、下が182と出ました。横にいた薬局の人は、「あっ、すみませんこの血圧計はおかしいですね」と言って新品の箱を開けて血圧計を出し「これで計り直してください」。何がおかしいのか分からず計り直しました。また、ほぼ同じ数値が出て、薬局の人はびっくりした顔になり「どうもないですか?」 「別に。」 「あなた、大変ですよ、薬局で薬を買っているところではなく、すぐ病院へ行った方が良いですよ」とかなり興奮しています。わたしは「そうですかー」と、不思議そうに帰りました。

 

妻に言うと、妻もあまり血圧のことは日頃何も言っていなかったのですが、「薬局の人がそう言うなら病院へ行った方が良いんじゃないの」と勧めるので、翌日行きました。病院でもほぼ同じ数値が出て、先生もびっくりしました。薬をもらって帰り飲んだのですが、何か急に立ちくらみがしたようになりしばらく休みました。「ボクは生まれつき血圧が高いんだろう。それで調子がいいんだから急に下げると末端まで血液が行かなくなりおかしくなるかも知れない」と素人判断し、それ以来薬も飲まず、「なめて」いたのです。

 

 そうして、脳出血を発症したときも上は約230ほどでした。

 集中治療室に運ばれると、右手に数本の『点滴』針が刺され、胸に『パッチ』が貼られ、頭のすぐ上の方で『ピッ、ピッ、ピッ』と『心電図』の波形が映る機械の音が鳴り出し、血圧、脈拍数が映しだされました。だんだん正常(140ぐらい)になりました。昼になったのですが点滴のためかあまりお腹はすきませんでした。夕方になると無性にお腹がすいてきたところで「夕食」が出ました。右手は動くので器を置いたまま、スプーンできれいに平らげてしまいました。脳内出血とは言えどこもほとんど痛くも痒くもないのです。

 

 そしてそこで一夜を過ごしたのですが、すぐ両隣の患者さん達は一晩中「ピーピー」と危険信号が鳴り響き、数人の医師や看護士さん達が駆けつけてきて、「大丈夫ですかー、聞こえますかー、ここがどこか分かりますかー」などと緊急処置が行われていて、なかなか眠れないので、左手足が動くかどうかいろいろ試していると、少しずつ動くようになり、足はかなり戻りました。これは、十数年前から「文芸かわち」の印刷でお付き合いが始まった久家佐和子様が3年ほど前、九十歳の高齢なのに大腿骨骨折で入院され、手術数日後から辛くとも一生懸命リハビリをされ、わずか数ヶ月後に退院されたのを知っていたので、私も早く復活してみせるというファイトが湧いてきたからです。

 

 翌日昼、一人部屋に移されました。もちろんまだ歩くことも、左腕も少し動くだけで、指はピクリともしません。妻がやってきて、「もう今年は年賀状の印刷はやめましょう。」と言いました。当店は本業はデザイン・印刷業で、ちょうど今年も来年の年賀状印刷が始まった矢先だったのです。私は「それはいけない。もう三十年間も毎年ご近所の人たちが頼みに来られるのに、今年はしませんでは、申し訳ない」 「でもあなたがこうなったのだから、仕方がないじゃないの」 「いや、まだ11月9日だし、ちょっと待ってもらえばすぐに退院して出来るからとにかく、やれるだけは何とかして欲しい」と言うと、妻も「わかった」と、すぐに病院から帰って仕事をしました。その日の午後になるとつかまり立ちと、左手もずいぶん動くようになりました。

 

そして入院二日目の夜を迎え、なかなか寝付かれないまま3日目の朝を迎え、朝食が済み、トイレも自力で行きました。その後先生が様子を見に来ました。

 

私は「もう帰りたいのですが。」と切り出しますと、「退屈ですか。でも、脳出血なんですから、せめて1週間は入院してください」。「いや、妻が一人で年賀状印刷でおろおろしていないか心配なんです。それにうちの事務所はここにいるのとほとんど同じ状態で、ただ横のソファーに座っていろいろ指示してやれば妻も少しは気が楽になりそうなので。体の調子がおかしくなったらすぐタクシーで戻ってきますから」と嘆願しますと、「じゃあ、(リハビリの)療養士を呼びますので、自宅療養が出来るほどの快復状態か診てもらってから、一応外泊許可を出せるかどうかにしましょう」と根負け(?)されました。

 

私はその女性療養士の先生の前で精一杯がんばって(?)動いて見せました。結果、外泊許可が出て帰宅し、翌日土曜、日曜日だったので、月曜日の朝、「もうすっかり大丈夫です。退院します」と電話で言って、妻と病院へ行き、診察を受けて、正式に退院しました。結果的には小学校の修学旅行(二泊三日)程の入院生活でした。その後、家の近所の「託麻台病院」を紹介され、脳外科の村上先生の診察、投薬、リハビリ(顔面・言語、左足、左手)三患部にそれぞれ三人の療養士先生(全て若い女性)方たちの世話になりました。

 

そして、「わたしを語る」の校正、挿入イラストなどを描きながら、年賀状は例年とほぼ同じくらい多数の方々からのご注文を何のトラブルも起きずに出来ました。またそのほかにもいろんな仕事の依頼もあったのですが、普通と何も変わらずこなすことが出来ました。

 

友人知人の方などは「こんな大病のあとだから少しはゆっくり休んだら?」と心配してくれたのですが、私は「血圧が高くなるのはストレスがいちばん悪いそうですよ。私は好きな仕事をしていないとどんどんストレスが溜まるのです。せっかく治療で血圧が下がったのにまた上がって今度は右手がやられたらそれこそおしまいですよ」と笑って答えています。ただし健康に対する考え方は大いに反省しました。

 

そうしながら、「わたしを語る」が回を重ねていくごとに、「ふるさと子供グラフティ」を発刊したときと同じように、連日あちこちから共感やお褒めの手紙や電話が届きだしました。そして十二月二十日、四十五回で終了しました。すると、今度は「寂しい」とか「もっと続けてください」、「一冊の本にしてください」など沢山のご要望がありましたが、私の原稿に巧みに筆を加えていただいた編集部の改原正憲氏によって読者の方々を引きつけたのでしょう。ただし45回で集約したことは今までの半生のほんの一部であり、自分の思い出としても前々から書き残しておきたかったので、『わたしを語る』に沿って、多少枝葉も含んで改めて回想していつか本にしたいと思っています。

 

ただ、ここでもずっと適当に書いていきたいと思っています。

 

「おりしも近年、「年金問題」、「医療問題」、若年層の犯罪多発、いじめ、不登校、とじこもり、自殺など「教育問題」。犯罪の凶悪化、家族間の犯罪、社会、家庭環境の変化。「食の安全」、「食糧自給率(カロリーベース)低下と食の多様化(欧米化)」など即身体に関する健康問題。さらに、テレビゲーム、パソコン(インターネット)、携帯電話などのいわゆるIT関連の社会問題。「保険金殺人」、「マルチ商法」、「ネット販売」などの詐欺事件。......要するに昭和三十〜四十年代には存在しなかったものから派生した問題です。昭和25年(1950年)生まれの、いわゆる「団塊の世代」の末席に属する私達の年代、日本が大きく移り変わっていく中で、日本中どこにもあったような普通の山村で育ち、21世紀の現在に至るまでこうして生きてきて、今、自分は世界一幸せ者だという人生を過ごしていることに、共感されることでもあれば幸いです。

 

こんごすこしずつ私の「奇跡?」的人生を語っていきます。

 

 

 

 すぐに、意識の問診、眼球視診、手足の感覚テストなどが行われました。

 そして、すぐに駆けつけてくれた改原氏が医師の方に「この人は三日前から熊日の『わたしを語る』を書いてもらっている原賀さんですよ」と言われると、先生は「あー、あの原賀さんですか。これからどうなるんですか」と言われたので、私が「いや、もう四十五回まで一応全部原稿は出してしまっているんです。ただ、まだイラストを描いたり訂正などはしなければならないのですが、八回までぐらいは大丈夫ですから、あとは病院でやります」と、自分ではほとんど重病とは思わなかったので言ったのです。

 しかし、所詮素人の「カラ元気」であり、先生は「そうですね。熊日さんはここから近いし」と、私を和らげるため笑って言ったのですが、即座に脳卒中と判断しているのだから、おそらく緊迫した治療プランが脳裏にあったのでしょう。

 

 そうして、すぐにCTスキャン室へと、ベッドの上に乗せられたまま長い廊下を曲がり曲がって、医師や看護士さん達が横に付いてどんどん走っていきます。廊下の天井がものすごい速さで流れていくのを見ていると、思わず幼い頃よく見たテレビ番組の「ベン・ケーシー」を思い出しました。「男、女、誕生、死亡、そして無限」というナレーションとその時の「記号(♂♀×+∞」が浮かびました。

 

 それから、これもテレビなどでは見たことがあったのですが初めての経験で、上向きに寝かせられたまま、丸い穴のような所へ頭部が、『ググッ、ググッ、ググッ』と「寸刻み」のように進んでいき、そのつどまるで頭部を「輪切り」するかのように、紫の光線が通過していきます。「脳の断面撮影」が行われたのです。その後、今度は、今までにも経験があるような普通の「レントゲン」で、頭部の側面、正面などの撮影。後で聞いたのですがこれは万一のとき頭蓋骨を開いて手術をするときのためだと言うことです。

 

 わずか数分も経ったでしょうか、CTの写真が現像されてきました。そして先生は患部を見て「よかったですね。これが脳内出血の部分ですが、わずか数センチです。発見が早くすぐここに来られたのが良かったので、ほとんど心配はありません。」とのこと。

 

 私は「頭蓋骨に穴を開けなくていいんですか?」と聞きますと、「あー、全くそこまでしなくても、二週間ほどで消えるでしょう。しかし、左手と左足はしばらく快復しないでしょうが、大丈夫ですよ」と言われました。そして、その脳内出血を止めたり血圧を下げたりなどの治療のため『集中治療室』へと運ばれ、そこには妻も入ることができないので、そこで別れて妻は家に帰りました。 つづく

 五十六歳を迎える平成十八年初夏、ひょんなことから熊日新聞社の記者・改原正憲氏とのご縁が発生し、「わたしを語る」というコーナーで毎日連続(四十五回)に寄稿のご依頼があり、原稿を一気に書きました。そして平成十八年十一月五日連載が開始されました。

 

 その三日目、11月8日の朝です。いつものように8時30分頃、一階の事務所に下りてきて照明電気のスイッチを入れようとしたら、左手が全く動きません。というより肩から先の左手がまるでなくなったような感覚でした。

「寝違えたのかな?」と、右手でスイッチを入れて、「おかしいな」と今度は足を屈めて屈伸をしようとしました。屈んだまでは何ともなかったのですが立ち上がろうとした途端左足が『ガクン』と力が抜け、崩れ落ちるように、事務所の床にへたり込んでしまったのです。どこも痛くも痒くもないのに左手、左足だけがマヒした状態になったのです。私はとっさに『右脳に異変が起きた』と察しました。脳は首の後ろで神経が交差していることを知っていたからです。

 『これがいわゆる脳卒中か』と生まれて初めて、自分の体の異変で、多少の不安感を持ちました。しかし、意識がはっきりしているので、すぐに落ちつき、大きく息をして、じわじわと何かにつかまりながら歩き、二階へ階段をはい上がりながら、まだ家事の後かたづけなどをしていた妻に「おーい、真知子ー」と声をかけると、妻は「何よー」と怪訝そうに返事しました。

 というのは、いつも私が先に一階の事務所に下りていき、何か作業を始めるのですが、「何々はどこにある?」とか「まだ降りてこれないのか」などと小言をよく言うからです。そんな時妻は「私は主婦の仕事もしなくちゃならないから忙しいのよ」と言うのです。

 私は再び、絞り出すように「真知子ー」と呼びました。すると今度は妻も何か異変を感じたようで、階段の上から顔を出し、私が階段の中段で這って登っているのを見て「どうしたの?」とあわてたように聞きました。私は「右の脳が詰まったか、切れたようだ。」と告げました。妻はすぐ私を階段から抱え上げ、「救急車を呼びましょうか」というので一瞬『救急車は大げさかな。恥ずかしいな』と思ったのですが、「うん、頼む」と言うとすぐに119番へ電話をし、(おそらく脳卒中だろうと告げ)救急車の手配をしました。

 「(熊本東消防署が近いので)4,5分もかからず来るようだけど、どこへ行ったらいいのかしら?」と聞くので、私が「改原さんに聞いてみて」。妻はすぐ電話をしました。改原氏は「済生会へ行きなさい」と教えてくれました。実は氏のお父さんも、何度も助けられたとのこと。

 そして私は、まだよく自分の症状がつかめず、せめてズボンは少し良いものに履き替えようとしました。ところが、ズボンに片足を入れようとした途端バタッと倒れてしまい、妻は「何してるの、動かないで」と叱りつけました。私は初めてこんな状態になったのが何かおかしくてならず、思わず吹きだしてしまいました。そうする内に救急車のサイレンが聞こえてきて到着。妻に肩車をされてやっと二階の玄関まで歩き、妻がドアにカギをかけたりしているうちに、私は家のまわりを見ると、近所の人たちが何事だろうと集まっているのが見えて、何となく恥ずかしくなり、「大したことはないんですよ」と言わんばかりに、平気な顔でにこにこしながら、階段の手すりを伝って階段を少しずつ降り始めました。すると、救急隊員の方が、「動かないでください。」と叱り、二人が駆け上がってきました。そして私を抱えるようにしながら、階下へ下り担架に寝かせ、救急車の中へと運び入れました。

 生まれて初めて、患者としても付き人としても、救急車に乗りました。妻もすぐ乗り込み、心配そうに私の右手を握っていました。救急隊員の方は「いちばん近い『日赤』に行きますか?」というと、妻は「いえ、済生会へ行って下さい」と告げました。救急隊員はすぐに受け入れの確認などをとり、救急車はサイレンを鳴らしながら走り出しました。

 車内で、「あーこうして自分は死ぬのかな」とふと頭をよぎったのですが、すぐさま「そんなことはない。左手足が動かないだけで意識ははっきりしている。えーと、1600年関ヶ原の戦い。1867年大政奉還。『砂の器』は松本清張、『白昼の死角』は高木彬光、住所、電話番号は...記憶はおかしくない。右手はどうもなく動くから絵は描ける。話も少し口元がおかしいけど何とかしゃべられる。これは大丈夫だ。おそらく軽い。」等といろいろ考えていると、発症から約30分後には「熊本済生会病院」へ着きました。  つづく

2009年3月

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