2010年1月アーカイブ

 昔、熊本の松橋町の近くの村に『辻の城』という山城があり、豪士たちが居城し、そこに『お辻さん』という女性が住んでいた。

 

お辻さんはたいへんな力持ちでその評判は遠近にひびきわたっていた。

 

 その頃、近くの『宇土』を居城としていた『小西行長』は、すぐ近くにそのような怪力無双の女傑『お辻』がいるといううわさをきき、シャクにさわっていた。

 

 

01城.jpg 小西は『朝鮮の役』できたえた兵士の大軍をひきいて、陣鉦太鼓を打ち鳴らして攻めよせた。

 

 そのことを知った『辻の城』では、さっそく軍議が開かれた。小城とはいえ『家の子郎等※』なきにしもあらずであったからだ。

 

03小西.jpgとはいえ、小西の大軍勢攻めくるの報は辻の城の人々をふるえあがらせた。

 

 頼みのつなは怪力『お辻さん』のみである。お辻さんは辻の城にたてこもる人々みんなからたよられて得意満面であった。

 

 小西の軍勢は、一挙に辻の城をとり囲んだ。お辻さんはそれを見ると、せせら笑い、

「有象無象がやってきた。どれ、ひとつ私の力をあれたちィ見せておどろかしてやろうかね」

 

といい、城の近くにあった竹林の中から、まわり一尺(直径約三十センチ)ほどの孟宗竹を引きぬいてきて、それを左手で軽々ともち、小西の軍勢からよく見えるところで、竹の枝を右手でさらさらとしごいて落としてしまい、それからそれを無造作に自分のからだにたすきにかけた。

 

そして、普通の男が二人でも持てないような『大薙刀(おおなぎなた)』を左手に軽く引っ提げて身構えたのである。

 

 

02お辻.jpg このありさまを目のあたりに見た小西の軍勢は眼をまわし腰を抜かし、しりごみしながら誰ひとり前に進み出るものがない。

 

「こらぁ、いかん。とてつもにゃつよかぞ。」

 

「うかつにちかづいたら、どぎゃんなるかわからん。」

 

「竹のたすきたァ、見たこともない。」

 

と、小西の兵士たちは全て、すっかり臆病神にとりつかれて、お互いの顔を見合わせるばかりであった。

 

 大将小西行長はこの様子を見て、カンカンに怒り、大きな声で部下に言った。

 

「何たるざまか。たかが女ひとり、どんな怪力だろうとあれしきの女ではないか。こちらは朝鮮をふるい上がらせたほどの名誉ある小西の軍勢ぞ。ひともみにつぶせー!」

 

 大将の下知に部下の軍勢もひしめきたった。陣鉦(じんかね)太鼓の音も勇ましく、先陣は城門に達したが、竹のたすきをかけ、大薙刀を持ったお辻さんは全く心は動ぜず、城門の前に立ち塞がり、大声でどなった。

 

「飛んで火にいる夏の虫とは良く言ったものだ。命が惜しゅうなかならかかってこい。虫けら同然、棒振り同然のお前ら方、十人二十人は面倒だ、千二千で一度にかかってこい。」

 

 そして手にした大薙刀を振り回し、たちまち、先陣の五、六十人を斬り倒した。

 

04戦い.jpg 

 

この勢いを見た小西の軍勢は、またしてもひるんでしまい、『蜘蛛の子が散った』ように遠巻きに離れてしまった。

 

 お辻さんはこれを見て、いい気になり、

 

「さあ、どんな者でもかかってこい。風雷神でもかかってこい。」と大声をあげた。

 

するとどうしたことか、にわかに暗雲たちこめ、雷鳴が鳴りだし、電光が光り出したのである。 

 そして、お辻さんの大薙刀の穂先にあたり、ふっ飛ばせてしまった。

 

 

05かみなり.jpg雷神に大薙刀の穂をとられてしまって狼狽するお辻さんを見た

小西の軍勢は、今こそ『勝機』と、いっせいにどーっとお辻さん目がけて押し寄せた。

 

さすがの怪力お辻さんも素手では多勢に無勢、とうとう殺されてしまった。

 

小西行長は、お辻さんひとりにとはいえ多勢を無くしたことに怒り、『辻の城』の者たちは一兵残らずやっつけてしまった。

 

村人たちは口々に、

「いくら力があっても、あんな、神さんまでかかってこいというほど天狗になるもんじゃなかばい。」

 

「お辻さんのごつ一人だけずばぬけて強い者がいなければ、こげなこつにもならなかったろうに、他ん者があわれたい。」というのであった。

 

 ところで、その戦さは初夏だった。辻の城には大きな梅の木があり、毎年大量の梅干しを作っていたのである。

 

お辻さんの主人は、たいへん臆病者で、戦さのとき一番大きな梅の木にのぼり、葉の繁みにかくれていた。が、軍勢のどよめきに身体がふるえ、そのため梅の木がゆれにゆれ、戦がすんだとき梅の実は全部落ちていたという。

 

 

06梅.jpg 

■※『家の子郎等(党)』は、平安末期から鎌倉時代に発生した、有力者の家、またはその惣領(長男・跡取り=家の子)についている武士集団(郎党)のことですが、当時(戦国時代)、日本の各地にはそのような豪族が乱立していました。特に熊本は『肥後国衆』で有名です。

 

■『有象無象(うそうむそう・うぞうむぞう)(有相無相)』とは、仏教(哲学)用語で、姿・形を持っている『存在』と、姿・形によって現出させられた『存在(観念)』。現象と真理。という考え方で、結局、例えそのものが現実に存在するとしても、考えようでは、存在しないという『所詮全てこの世は無』であるという考えかたにもからみ、『取るに足らない雑多な人たち』というのにも使われるようになった言葉です。

 昔、あるところにおじいさんと、とてもかしこい孫が暮らしていました。

 

 ある日のこと、おじいさんが畑を耕していると、そこへ馬に乗った、いじわるそうなお侍が通りかかりました。

 

 実は、そのお侍はお城のお殿様で、よくお忍びで、一人馬に乗って城を出て、村人にあうとなんやかんやといじわるな『なぞかけ』を言っては困らせていました。村人は、その殿様を遠くから見つけるとそそくさと隠れていました。

 

 お城の家老や重臣たちも知ってはいたのですが、下手に忠言をすると逆にお手打ちになるかも知れないので、見て知らんふりをして、

 

1挿絵1.jpg「殿には困ったもんだ。全くまつりごと(政治)もしないし、領民からは嫌われているし、若君は頭もいいし、殿にはご隠居してもらおうか」

「とんでもない、そのようなことを言えば、即首ものぞ」と、なげいていました。

 

 

その日、おじいさんはあまりいっしょうけんめい鍬をふるっていましたので、目の前まで殿様が来るのに気づきませんでした。

 

いきなり、殿様は、

「おい、じじい、今日は今まで何回鍬をふるった。」

「えっ、あっ、へへぇ、そんなこと、いちいち数えておりません」

「あとでもう一回まわってくるから、それまでにちゃんと思い出して数えておけ。そうでないとひどい目に合わすぞ」と言って、馬で去っていきました。

 

2挿絵2.jpg おじいさんは、困った顔してすわりこんでいましたら、そこへ孫が野菜種をもってやって来ました。

 

「じいちゃん、どうしたんね、困った顔して」

 

「かくかくしかじかで、鍬をふるった数を言わんと、どんな目にあうやら、困った困った」

 

「なあんね、そんなら適当に1万8回と言うたい。なしてそれがわかったかと聞かれたら、お侍さんの馬は朝から何歩走ってきたのか、と聞き返せばいい」

 

と言って、先に家に帰っていきました。

 

 おじいさんは、それは名案だと元気を取り戻し、また畑仕事にせいを出しました。

 

すると、さきほどの殿様がやって来て、

 

「思い出したか」と言ったので、

 

「へえ、今ちょうど18回目の鍬をふるったところです。

ところで、お侍様の馬は、朝から何歩走ってきなさったか」

 

「うーーむ、じじい、それは誰かの入れ知恵じゃろう? 

なに、孫に教えてもらっただと。 

その知恵のある孫にこの薬を飲ませろ。もっと利口になる薬だ」

 

 お殿様は、幼い子供に知恵負けしたのがくやしくて、おじいさんに毒を渡したのです。

おじいさんは、その薬を家に持って帰りました。

 

 そして、孫に頭がよくなる薬だというのをやりました。

孫は、

 

「薬で頭がよくなるんなら、世の中あほうはおらんわい」

 

と言って、その薬をぽいと捨ててしまいました。

 

 その次の日、孫とおじいさんは、いつものように畑で仕事をしていましたら、またそのお侍が立ち寄りました。

 

 元気そうにしている孫を見てだまされなかったのを頭に来て、

 

「おいぼうず、薬は飲んだか」

 

と言いました。孫は、

 

「あい、おかげで昨日までよりうんとかしこくなったです」

 

3挿絵3.jpgと言ったので、殿様はびっくりして、お城にとんで帰りました。

 

 そしてあれと同じ薬をとり出し、ごくんと飲みました。

 

 その後、お城では『急の病(やまい)』で死んだ城主に代り、かしこい若君があとを継ぎ、政治も立派になりましたとさ。

 

 私は、昭和25年(1050)生まれで、小学、中学時代は昭和31年~41年ぐらいを過ごし育ったわけです。その時代は貧乏でしたが実に楽しく、夢があり、その頃の環境は日本中が子供も大人も心豊かで平和だったと思っていました。

 

現代は、それらが何かによって壊されてしまった。とその『原因』を求め、少しはあの頃の昔の暮らしに戻った方がいいのだという半ば『結論』に似たものに到達した感覚になり、いろいろと話をしたり野外体験、遊びの講習などをやってきました。

 

そこで、適当に「過去と現在の子供(青少年)の動向の変化」をしゃべるわけにも行かないし、来月も数ヶ所で講習予定もあり、それらのデータを調べていました。すると、丁度それらのデータが見つかりました。

 

すると、なんと当時のほうが圧倒的に少年犯罪は多かったのです。それも私が生まれた頃から高校卒業する昭和44年までが『殺人』凶悪犯罪は最も多く、年間300件~400件です。そして『テレビゲーム』がスタートした頃(インベーダーゲーム1978)、少年犯罪が急増したなどと騒がれてきた昭和55年(1980年)以降からは100件超すのは稀で560件ほどに激減しているのです。もちろん平成になってからもほとんど増えてはいません。

 

(参考)http://www15.atwiki.jp/houdou/

少年犯罪統計データ
警察庁の統計による。

1945
1972.5.14の沖縄の数字を含まない。

http://kangaeru.s59.xrea.com/toukei.html

 

これが事実だとすると、結局『昔遊び』や当時の暮らしに戻そうとするのは問題だと考えざるを得ません。かえって犯罪が増えるか、子供の精神に悪影響を与えるかもしれません。

 

しかし、マスコミでは一件でも少年犯罪が起きると、少年犯罪の残虐性や低年齢化など、増加の一途のように言い、「昔はこんな子供や大人は少なかった。」といいます。

マスコミは何の目的でそれらの事実(極端な減少)を隠して、近年凶悪化してきていると脅す?のでしょうか。

 

ほとんどのマスコミは、企業のスポンサーによって成り立っていますので、犯罪が増えたという恐怖を煽れば『儲かる』企業とは一体何なのか。私には俄かには分かりません。

 

しかし、この参考資料が、『警察庁』発表というのも果たして真実なのかと、今の日本は何も信じられないような世の中になったことだけは真実です。

 

そして、仮にマスコミに騙されているのであれば、当時なぜ身の回りでそのような事件をほとんど見聞きしなかったのかです。もちろん今のようにマスコミは発達していなかったからかもしれませんが、地域のコミュニケーションは豊かでした。

◆拙著の読者から、
「素晴しい本ですね。しかし、違っていたらすみませんが、もしかして原賀さんは子供の頃、本当は遊び下手だったのではないでしょうか。なぜなら、あまりにも綿密に記憶されているからです。人間は出来ないものをなんとかできるようになるため苦労や努力したことというのは良く覚えているからです。私もそうだから。」
というお便りをもらいました。

◆実はまさにその通りです。

 ほとんど『失敗』することが少なかったような遊びはあまり詳しく書いていません。
詳しく描いているものほど、当時なかなかうまくいかなかったものが多いです。

 先輩たちを見習って作っても最初失敗ばかりして、その後いろんな工夫を重ねた結果満足できるものが『完成』したときの喜びは大きく、よく記憶しています。

 そのように私にとって『遊び』とは、ずっと『自己達成』の快感のためだったのかも知れません。
『学業』も同じでした。自分の知りたいこと、興味を持ったらどんどん追求し、理解できたら

また次を求めていきます。だからやっと理解したことは忘れません。

結果、遊びや学業から得られる『達成感=楽しさ』が同質になります。それはどちらが先かではなく同時進行・同類だったようです。

◆以前、新聞に『ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム』の記事が掲載されていました。

基調講演の野依良治先生が、


「『知識を与うるよりも感銘を与えよ。感銘せしむるよりも実践せしめよ』。
作家の坪内逍遥は、このように言っている。私も全く同じ考えだ。学ぶと言うことは能動的な行為で、先生や先輩に導かれることはあっても強制されるものではない。

 人間は本来、自分を認識して、周囲の環境を認識しながら生きていくから、学ぶ力は本能として持っているはずだ。ところが、その能力が衰えつつあるように思えてならない。
 

野生の犬はえさを食べるとき、安全かどうかを確認しながら食べる。

 ところが、いつも安全なドッグフードを与えられている飼い犬は、何の疑いもなく食べてしまう。

 人間もペットの犬と同じように、学ぶ習慣を失っているのではないか。......」

と言うようなことを述べられています。まさに、言いたかったことです。

◆遊ぶという字はもともと『游』で、「なすがまま・流れるように・自由に」などの意味があり、あくまで強制ではなく自分が求めるものでなければ、楽しさの実感にはなりません。
学業も同じように自分が知ろうとしなければ、勉強にはならないと思います。

するとどちらも『目的(動機)』と『成果』は同じなので、個人にとってはひとつの行為とも言えます。

そうした性格は大人になって、遊び・勉強・仕事が自然に一体化できました。

その『遊び心』がサラリーマン時代も、独立後もいろんな商品開発やデザイン・印刷などに現れ、あまり景気に左右されずこの30数年間、楽しくクリエイトノアを運営してきました。

1月中旬から2月初旬は一年のうちで一番寒い頃です。
 この時期には秋まきの麦が7~8センチほどの芽を出しています。それを霜が降りている早朝に、1~3回ほど『麦踏み(踏圧)』していました。

 わが家では、ほとんど両親がやっていたのですが、近所のお年寄りが居る所はおじいさんやおばあさんまでが総出で朝からやっていて、あちこちの畑(田んぼ)に何人もの人が、黙々と麦踏みをしている光景が見られました。

(麦は湿田に弱いので畑作か、水田で米との二毛作では畝〈うね〉作りで、畝と畝の間を雨水排水溝にする)子供達も日曜日などで学校が休みの時は小学生でもみんなやっていました。私も随分やりました。

 ところが、長靴を履いていても足の先がジンジン冷えて痛くなるほど、冷たくてたまりませんでした。
そこで、最初に「ぼくは何畝すればいいの?」などと『ノルマ』を聞くと、母は「そうねぇ、ほんとはみんな終わるまでして欲しいけど、まだ小さいしカゼひいたらいかんから、辛くなったらやめてもいいよ」と言われ「だったら三畝でいいね?」というと「いいよ」と言ってくれました。

 そこで、「指示された分」だけをやるような気分で、本当の仕事の『目的』は知らなかったのです。だから、早くさっさと何畝かを済ませて、家に帰り「こたつ」に入って漫画の本でも見たかったのです。

002麦踏み.jpg しかし両親は、毎年毎年、数反の麦踏みを繰り返してきました。私は、早く済ませようと適当に踏んでいますと、しっかりゆっくり踏んでいる父に追いつき、得意になって追い越しました。すると父から、
「そんな、適当にしたらいかん。お前は体重が軽いからもっとしっかり、ゆっくり踏まんか」と叱られてしまいました。
 私は、せっかく芽を出したばかりをこんなに踏みつけたら枯れないのか、また、他の野菜などはこんな事をしないのになぜ「麦」だけはこんなにいじめる?のだろうかというのも麦踏みのお手伝いをしたくなかった理由だったのです。
だから父に尋ねました。
「どうして麦は踏みつけるの?」と。
 
 すると、この時期には気温が零下になると霜柱が立ち、根や株が盛り上がり『凍霜害』になるので、それから守り『耐寒性』を付けるためと、新芽は元気が良すぎてどんどん伸び、いわゆる『背高ノッポ』の足腰の弱い茎になってしまうので、しっかりと『徒長』を抑え、鍛えるために麦踏みをするということでした。
 それを知った後では、「麦くんのためになるのだ」と、しっかりと踏むようにしました。

 結局、この『麦踏み』は、現代の『子育て』や『学校教育』にも共通するような気がします。子供が危険な環境にさらされているときはそれを親は全力で予防してやり、逆に放任・甘やかしで体も精神も軟弱に成長していくのを厳しく鍛えてやるのが、本当の愛情のある親子関係だと思います。

 そのように、私に麦踏みの手伝いをさせたのも、体を鍛えて寒さなんか吹き飛ばすような元気な子に育って欲しいと思ってのことだったような気がします。
 実際今もほとんどカゼもひいたことなく毎日仕事に励んでいます。

■麦のことわざに、「彼岸過ぎの麦には手をかけるな」というものがあります。今年は3月18日が『彼岸入り』ですが、収穫時期は初夏(五月初旬)ですので、約40日前です。
 要するに、麦踏みや「土かけ」作業などいろいろな『手』をかけるのは春の彼岸頃までで、後は『自力』ですくすく育ち、実っていくというものです。

結局その頃になっても、いろいろと手をかけていると、ついつい実りが悪かったり、病気になったりするのを昔の人達は、経験で知っていたのでしょう。

■人間で言えば、それがちょうど「元服」(昔は地球規模で大体15歳頃だった。)にあたるのではないでしょうか。
 麦は彼岸まで(子供もその頃まで)は一生懸命かわいがり、鍛えながら育てて、その後は『自立』に任せるということでしょう。

■さらに『子育て』に大切な要因の一つに「褒(ほ)めてやる」こととよく言われますが、(百科事典によると)

 島根、広島、山口県などでは、正月20日を『麦正月』といい、『麦褒め』をするそうです。
二十日(はつか)正月の『麦飯とろろ』を食べてから、外に出て大声で「今年の麦は出来がようて、背中から腹へ割れるべよう」と唱え、

 山口県萩市見島では、麦の団子を竹に刺して持って、山に登り、
「よその麦はやぶれ麦、これの麦はええ麦」と褒めるそうです。
また島根県大原郡では、麦畑に蓑を敷いてその上に寝転がり、
「やれ腹ふとや、背な割れや」と唱え、
 福岡県宗像、「地の島」では三月三日を『麦褒め節句』といって、畑に出て麦の出来を褒めるそうです。(現在存続は知りませんが)

■そのように「麦作」では麦踏みでは「守り」「鍛え」さらに成長の段階で「褒めてやり」、結局「彼岸」で独り立ちさせます。

そして、初夏の収穫後は『収穫祭』が各地いろいろな形式で行われます。人間に例えると、素晴らしい人生に対する「勲章」のようなものでしょう。

 現代の麦踏は機械でするようです。しかし、私達が幼い頃どんどんアメリカ産輸入が増えてきて、価格は暴落し、麦を作る人はいなくなってきました。

結局、麦の栽培をしなくなった頃から、子育ても変わってきたような気がします。

 平成22年1月より、西日本新聞社企画シリーズ『食・農』のコーナー(月1回)に、1年間『ふるさと子供グラフティ』から季節に応じた絵と文が掲載されます。

第1回は1月10日(日曜日)で、「もぐら打ち」でした。

 

0もぐらうち.jpg「も〜ぐら打ちは十三日。十四日はドンドヤ。」と、大きな掛け声で、あちこち農家のかど(庭)をパーン、パーンと『もぐら打ち』して回る子供の風習があった。

しかし、本当にモグラが出てくるのではなく、女竹とワラで作った棒で地面を叩くだけだ。

 すると、家の人がごほうびとして餅をくれる。

この餅を明日の『ドンドヤ』で焼いて食べるのだ。

ただ、これで実際もぐらが退散して、被害が少なくなったのか定かではない。

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文章はほぼ200字以内ですのでこれくらいしかかけません。

『モグラ打ち』の詳しい内容(叩き棒の作り方など)は、グラフティに掲載しています。

 

次回は2月28日掲載予定です。

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 10日の新聞を見たら結構大きく載っていました。

すると同じ日の西日本新聞に、『福岡の偉人』を称える子供の作文コンクール受賞者が発表されていました。その審査委員長が『土居善胤さん』だったのです。また、その偉人のお一人が『西島伊佐雄先生』でした。西島先生は公私共にいろいろお世話になりました。また『子供の絵』も大きく影響を受け、先生との出逢いがなかったら子供グラフティは生まれなかったかもしれません。

 

土居様は、私が福岡時代印刷会社に勤めていたとき担当だった『福岡相互銀行』(現・西日本シティ銀行)の広報課長でした。私が熊本へ帰ってからもう35年ほどになりますが今もずっとお付き合いをしています。

 

そして、土居様は『短歌』で福岡市の桧春桜を救った『花かげの物語』(出窓社・1200円+税)の著者であり、桜を守ったきっかけを作った本人でもあります。

その本の内容は、福岡県の国語の教科書副読本にもなりました。昨年は、この原作を基にしたミュージカルも公演されました。

 

桜の並木が道路拡張で伐採されることになった春浅い頃、土居様は、

 

 『花守り・進藤市長殿』 

 花あわれ せめては あと二旬

 ついの開花を ゆるし給え

 

と、色紙に歌を詠み桜の木に下げたのです。それを見た福岡市の職員が進藤市長に見せると、

 

 桜花惜しむ大和心のうるわしや

 とわに匂わん花の心は     香端麻  (かずま・進藤一馬市長の雅号)

 

 と返歌が下がったのです。それからどんどんそのうわさは広がりました。

簡単に書いたのですが、その間いろんなことが盛り上がっていき、とうとう伐採はされず、桧原桜は残りました。

 

私が福岡を去ったあとでの素晴らしい出来事でした。

 

 

 

 

 

 昔から、一俵の米は四斗(約60キロ)と決まっていましたが、江戸時代ある時期から、なぜか(現在・長崎県の)『平戸藩』だけは三斗二升(約48キロ)を一俵としたそうです。

 

 それにはこんな話が伝えられています。

 

 その昔、平戸にはたいそう頭の切れる殿さんがおったそうです。

 あるとき、参勤交代で江戸にのぼり、江戸城の大広間で酒宴が開かれたときのこと、座敷には全国津々浦々の諸大名たちがずらりと座っておりました。

 

 そのとき、いちばん下座でみすぼらしい絣の裃(かみしも)を着て座っておる一人の大名の姿を、将軍様は目にとめました。その大名は平戸藩の松浦公でした。

 

1飯食い.jpg ひざのうえに手ぬぐいを広げ、飯をすすり込むようにして食べているその姿が、将軍様にしてみれば、あまりにも奇妙に見えたのです。

 

「あそこの妙なむさくるしい大名はどこのものじゃ、ここへ呼べ。」

 

 将軍様の命で前に呼び出された松浦公に、将軍様は、

 

「おぬしのその裃はちと変わった生地じゃのう。また飯の食い方も変わっておるのう。ちと、不作法ではないか。どうして箸でつかまず、碗を口にあて、かき込むようにするのじゃ?」とたずねられ、

 

「はっ、恐れながら申し上げます。私の国は遠い西の果て、小さな島国で季候も悪く、米はわずかしかとれませぬゆえ、わずかな米は『年貢米』にあて、領民は粟、稗、それに芋ばかりを食べております。そこで領民だけにそれを強いるのは酷なゆえ拙者たち武士もほとんど同じものを食しておりますが、なにぶん粟や稗はねばりがないので、どうしても箸ではつかみにくく、白湯をかけかき込むくせが付いております。

 

 また、この裃は、拙者が質素なるゆえ、今日のために百姓たちが葛(かづら)や楮(こうぞ)をひいて、作ってくれたもの。それで、せっかくの裃が汚れないように、手ぬぐいをひざに掛けて食べていたのでございます。そのようなことで、先ほどからついついそのくせが出てしまい、大殿様には誠にご不快を与えてしまい、平にご容赦下さいませ。」

と答えますと、

 

2将軍.jpg

これを聞いていた将軍様は、わずかに目を潤ませ、

「許すも何も、そんなに貧しいにも関わらず、松浦公の藩は毎年きちんと年貢米を納めておる、誠に忠君領民の鏡なるぞ。よし、平戸藩今後年貢米は一俵が三斗二升でよいことに致す。」ということになったそうです。

 

こんなことは日本中で平戸藩だけの特例だったそうです。

 

◆ところが本当は当時、平戸・松浦藩は海外貿易で密かにかなりの財源確保、貯蓄をしていたようで、それが幕府に知れるのを畏れて、きちんと年貢を納め、参勤交代の時も出来るだけ質素を装っていたのかも知れません。

 

 当時の幕府は、赤穂浪士・忠臣蔵で有名な『赤穂藩』も『塩』の利権を狙っての取り潰しが目的だったとも言われているように、松浦藩の貿易『利権』は領地お取り上げ(=天領)になる可能性が高かったのです。

 

 それに気づいていた松浦公の防衛知恵だったのでしょう。当時の幕藩体制は、規定の年貢(地方納税)をすれば、『経済(経世済民=国を運営し民を救う)』は地方の力量であり、がんばれば豊かになったのです。

 

◆その点、今はどうしようもありません。稼げば稼ぐほど税金(国税)は高いし、どれだけ苦しくとも消費税からは、物を買う限り逃れられません。

 

◆もっと日本の政治は、領民の立場に立った、武士の政治をして欲しいです。『武士(国)』の最大の仕事は『防衛』『外交』『治安』です。そのために必要な税は喜んで払うと思います。

 

経済(財源)は、それぞれ地域の特徴があるので、地方に移譲すべきです。健康保健、(介護保険)年金もです。または「個人(家族)」の判断で『自己負担』すべきです。

 

◆教育も、自立を目指すため、政治(文部科学省)はあまり変な口出し(教え方・指導・強制)はして欲しくありません。

家族、学校、地域に権限を委譲すべきです。私達が幼い頃は、児童会議や部落(集落)会議などでかなり子供たちが自主的に決めてやっていました。

 

 

 古代中国・孔子(こうし)のことばに、『苛政(かせい)は虎より猛(たけ)し』というのがあります。

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 孔子36歳のとき、生まれ故郷の『魯(ろ)』をはなれ、弟子の子路(しろ)と願路(がんろ)とともに『斉(さい)』の国に、政治仕官を求めて旅立った。

 

旅の途中、車はゆっくりと進んでいる。車上には孔子が静かにすわっていた。

 あまり人の通らない道のようだ。泰山(山東省泰安県の北)がひときわ高くそびえ、あたりは深閑としていた。

 

一行はふと、婦人の泣き声が静寂を破って伝わって来るのを聞いた。その声は前方のいくつかの盛り土をした墓のある所から聞こえるらしい。

孔子もはっとわれに返ったかのように、身を起して耳を傾けた。車は心持ち早くなった。

確かに婦人は道のかたわらにある、三つの粗末な墓を前にして泣いていた。その声は悲痛な叫びにも似て、切々と人の胸を打つものがあった。

慈悲深い孔子はそのまま過ぎ去ることができず、車前の横木に身を寄せて婦人に敬意を表してから、弟子の子路をやってこう尋ねさせた。

「どうしてそんなにお泣きになるのですか?

何度も悲しいことがあったようですね。」

 

 婦人は驚いて顔を上げたが、そのやさしい言葉に幾らか救われたらしかった。

 

「そうです。この辺は本当に恐ろしい所なんです。昔私の舅に当る人は虎に食われて死にました。続いて私の夫が殺され、今度は私の子供がたべられてしまいました。」

「そんな恐ろしい所をどうして離れないのですか?」

「いいえ、この土地に住んでさえいますなら、酷たらしく租税を取り立てられるような心配がございませんの。」

 

 孔子はこの言葉を聞いてすっかり感じ入り、お供の門人達に言った。

 「よく覚えておきなさい、『苛政は虎よりも猛し』ということを。」

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この話は『礼記』の「檀弓篇」に出ていますが、孔子の生きた春秋末期の世相の一面を語っています。この時代はいわゆる下克上の時代で、孔子の生まれた魯の国でも大夫の季孫氏が人民の犠牲の上に勝手なことをしていました。

 

孔子は「季氏(季孫氏)は周公より富めり」(『論語』先進篇)と言い、季氏の振舞を「是をしも忍ぶべくんば、孰れか忍ぶべからざらん。」(これをさえ忍べるとすると、天下になにごとも忍べないものはないではないか)(『論語』八イツ)と憤ったのです。

 

これが孔子をして「苛政は虎よりも猛し」と言わせたのであり、苛酷な政治の及ぼす害悪を、猛獣と比較して端的に述べています。

 

001元旦.jpg

 平成二十二年2010)がスタートしました。

 

 鳩山新政権がスタートして四カ月経ちましたが、今までの六〇数年間に及ぶ自民党中心とした政治があまりに長かったので、新政権に改革の「期待」ばかりが大きく、何となく物足りないような気がしています。

 

 しかし、そんな急に「良いこと」ばかりに変えるのは難しいでしょう。今までの負の部分も大きいのですから。ただ、新政権発足と同時に打ち出した幾つかのダム建設中止宣言や「公開事業仕訳」など今まで無かったことが起こりました。今年は必ず明るくなってくるのではないでしょうか。

 

 私の方も、二一年三月に「ふるさと子供グラフティ」を手直しして「新装版」を(自費)出版しました。好調なスタートを切り、四月には熊本の書店で週間ベストセラー四位となり、夏には「週刊朝日」の「本の甲子園...カリスマ店員おすすめご当地書籍大集合」で熊本県代表に取り上げられました。 十一月には宮城県仙台の書店でベストセラー十位になっていました。

 

 日本全国の書店様や学校教材会社様などへ連日送りだしています。

 約半年で一万冊を突破し、おそらく自費出版では最高だと思っています。そして、下に掲載している五種類(絶版にした元のグラフティも含んで)の本は約八万冊となりました。

 

 だから、私にとっては本当にいい年でした。本年もどんどん、子供の昔遊びが拡がることを望んでいます。

 

 今、日本は「デフレ不況」だとか、最悪の失業率、給料、ボーナスも大幅に減収だとかで大変だなどという人達が多いそうですが、私はほとんど関係がありません。私の場合はもう独立して三十数年間、法人ではないので月給もボーナスもありません。しかし考え方次第ではないでしょうか。好きな仕事をやって、ほどほどに食べていければいいと思っています。

 

 そういう風な性格になったのは、農家で育ったからだと思います。両親や近所の人達もほとんど給料取りはいなかったので、そう言った話をしたことがありませんでした。

 

 だから、月々決まった給料やボーナスもなかったからこそ、自分たちが一生懸命努力して稼ぐか支出を工夫することが勉強になって良かったのかもしれません。

 

 政権交代して初めての国家予算が組まれようとしていますが、いろいろ苦労があるようです。今年はみんなで多少辛抱して、心は明るい日本にしていけたらと思っています。

 

 そのためにも、子供や家族で、ちょっと昔のお金のかからない遊びで十分楽しめることを復活して欲しいと望んでいます。

2010年2月

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