2009年2月アーカイブ

 「自分の獲物は自分で獲得しよう!取れなかったらお菓子は食べられないからな。」

という合言葉で、私たち夫婦は10数年前から『クリップUFOキャッチャー』作りを、子供たちによく教えに行っています。もちろん主には昔遊び「竹工作(竹笛)」が多いのですが、現代遊びもいろいろやっているのです。

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後から全体.jpg取れる.jpgのサムネール画像

この『クリップUFOキャッチャー』は、自分で「獲物」を獲得する喜びがあり、みんな夢中になってやります。

 また、お年寄りの方(老人会、老人ホームなど)でも教えたらみんなむきになって(?)大流行しています。

 写真は昨年夏休み、熊本市立博物館で開催された、熊本大学工学部、熊本高専の主催『キッズサイエンス』で行ったものです。この『クリップUFOキャッチャー』がどうして『科学・理科』なのか?

 『遠心力』を学ぶのに楽しく分かるからです。みんな「遠心力って楽しい!」と感動していました。

  UFOキャッチャーまとめ.jpg  

 すぐに、意識の問診、眼球視診、手足の感覚テストなどが行われました。

 そして、すぐに駆けつけてくれた改原氏が医師の方に「この人は三日前から熊日の『わたしを語る』を書いてもらっている原賀さんですよ」と言われると、先生は「あー、あの原賀さんですか。これからどうなるんですか」と言われたので、私が「いや、もう四十五回まで一応全部原稿は出してしまっているんです。ただ、まだイラストを描いたり訂正などはしなければならないのですが、八回までぐらいは大丈夫ですから、あとは病院でやります」と、自分ではほとんど重病とは思わなかったので言ったのです。

 しかし、所詮素人の「カラ元気」であり、先生は「そうですね。熊日さんはここから近いし」と、私を和らげるため笑って言ったのですが、即座に脳卒中と判断しているのだから、おそらく緊迫した治療プランが脳裏にあったのでしょう。

 

 そうして、すぐにCTスキャン室へと、ベッドの上に乗せられたまま長い廊下を曲がり曲がって、医師や看護士さん達が横に付いてどんどん走っていきます。廊下の天井がものすごい速さで流れていくのを見ていると、思わず幼い頃よく見たテレビ番組の「ベン・ケーシー」を思い出しました。「男、女、誕生、死亡、そして無限」というナレーションとその時の「記号(♂♀×+∞」が浮かびました。

 

 それから、これもテレビなどでは見たことがあったのですが初めての経験で、上向きに寝かせられたまま、丸い穴のような所へ頭部が、『ググッ、ググッ、ググッ』と「寸刻み」のように進んでいき、そのつどまるで頭部を「輪切り」するかのように、紫の光線が通過していきます。「脳の断面撮影」が行われたのです。その後、今度は、今までにも経験があるような普通の「レントゲン」で、頭部の側面、正面などの撮影。後で聞いたのですがこれは万一のとき頭蓋骨を開いて手術をするときのためだと言うことです。

 

 わずか数分も経ったでしょうか、CTの写真が現像されてきました。そして先生は患部を見て「よかったですね。これが脳内出血の部分ですが、わずか数センチです。発見が早くすぐここに来られたのが良かったので、ほとんど心配はありません。」とのこと。

 

 私は「頭蓋骨に穴を開けなくていいんですか?」と聞きますと、「あー、全くそこまでしなくても、二週間ほどで消えるでしょう。しかし、左手と左足はしばらく快復しないでしょうが、大丈夫ですよ」と言われました。そして、その脳内出血を止めたり血圧を下げたりなどの治療のため『集中治療室』へと運ばれ、そこには妻も入ることができないので、そこで別れて妻は家に帰りました。 つづく

 五十六歳を迎える平成十八年初夏、ひょんなことから熊日新聞社の記者・改原正憲氏とのご縁が発生し、「わたしを語る」というコーナーで毎日連続(四十五回)に寄稿のご依頼があり、原稿を一気に書きました。そして平成十八年十一月五日連載が開始されました。

 

 その三日目、11月8日の朝です。いつものように8時30分頃、一階の事務所に下りてきて照明電気のスイッチを入れようとしたら、左手が全く動きません。というより肩から先の左手がまるでなくなったような感覚でした。

「寝違えたのかな?」と、右手でスイッチを入れて、「おかしいな」と今度は足を屈めて屈伸をしようとしました。屈んだまでは何ともなかったのですが立ち上がろうとした途端左足が『ガクン』と力が抜け、崩れ落ちるように、事務所の床にへたり込んでしまったのです。どこも痛くも痒くもないのに左手、左足だけがマヒした状態になったのです。私はとっさに『右脳に異変が起きた』と察しました。脳は首の後ろで神経が交差していることを知っていたからです。

 『これがいわゆる脳卒中か』と生まれて初めて、自分の体の異変で、多少の不安感を持ちました。しかし、意識がはっきりしているので、すぐに落ちつき、大きく息をして、じわじわと何かにつかまりながら歩き、二階へ階段をはい上がりながら、まだ家事の後かたづけなどをしていた妻に「おーい、真知子ー」と声をかけると、妻は「何よー」と怪訝そうに返事しました。

 というのは、いつも私が先に一階の事務所に下りていき、何か作業を始めるのですが、「何々はどこにある?」とか「まだ降りてこれないのか」などと小言をよく言うからです。そんな時妻は「私は主婦の仕事もしなくちゃならないから忙しいのよ」と言うのです。

 私は再び、絞り出すように「真知子ー」と呼びました。すると今度は妻も何か異変を感じたようで、階段の上から顔を出し、私が階段の中段で這って登っているのを見て「どうしたの?」とあわてたように聞きました。私は「右の脳が詰まったか、切れたようだ。」と告げました。妻はすぐ私を階段から抱え上げ、「救急車を呼びましょうか」というので一瞬『救急車は大げさかな。恥ずかしいな』と思ったのですが、「うん、頼む」と言うとすぐに119番へ電話をし、(おそらく脳卒中だろうと告げ)救急車の手配をしました。

 「(熊本東消防署が近いので)4,5分もかからず来るようだけど、どこへ行ったらいいのかしら?」と聞くので、私が「改原さんに聞いてみて」。妻はすぐ電話をしました。改原氏は「済生会へ行きなさい」と教えてくれました。実は氏のお父さんも、何度も助けられたとのこと。

 そして私は、まだよく自分の症状がつかめず、せめてズボンは少し良いものに履き替えようとしました。ところが、ズボンに片足を入れようとした途端バタッと倒れてしまい、妻は「何してるの、動かないで」と叱りつけました。私は初めてこんな状態になったのが何かおかしくてならず、思わず吹きだしてしまいました。そうする内に救急車のサイレンが聞こえてきて到着。妻に肩車をされてやっと二階の玄関まで歩き、妻がドアにカギをかけたりしているうちに、私は家のまわりを見ると、近所の人たちが何事だろうと集まっているのが見えて、何となく恥ずかしくなり、「大したことはないんですよ」と言わんばかりに、平気な顔でにこにこしながら、階段の手すりを伝って階段を少しずつ降り始めました。すると、救急隊員の方が、「動かないでください。」と叱り、二人が駆け上がってきました。そして私を抱えるようにしながら、階下へ下り担架に寝かせ、救急車の中へと運び入れました。

 生まれて初めて、患者としても付き人としても、救急車に乗りました。妻もすぐ乗り込み、心配そうに私の右手を握っていました。救急隊員の方は「いちばん近い『日赤』に行きますか?」というと、妻は「いえ、済生会へ行って下さい」と告げました。救急隊員はすぐに受け入れの確認などをとり、救急車はサイレンを鳴らしながら走り出しました。

 車内で、「あーこうして自分は死ぬのかな」とふと頭をよぎったのですが、すぐさま「そんなことはない。左手足が動かないだけで意識ははっきりしている。えーと、1600年関ヶ原の戦い。1867年大政奉還。『砂の器』は松本清張、『白昼の死角』は高木彬光、住所、電話番号は...記憶はおかしくない。右手はどうもなく動くから絵は描ける。話も少し口元がおかしいけど何とかしゃべられる。これは大丈夫だ。おそらく軽い。」等といろいろ考えていると、発症から約30分後には「熊本済生会病院」へ着きました。  つづく

発刊によせて

熊本大学名誉教授

パリ自然史博物館館友

元熊本大学付属小学校校長

馬 場 敬 次 先生

 

遊びが人格の形成に大きく関わっている。

 

 この本は、土の香りがする。草木の香りがする。人と人との交わりに温もりを感じる。悠然とした自然の営みに調和し、自然に挑む子供の生活の記録である。既刊の3冊にはほかにもたくさんの遊びが紹介されているが、本書は第一作の改訂版だという。紹介されている日常の生活はそう古いものではない。ついこの間まで普通にあった生活である。今では生活用品のほとんどが商品化されて、手作りの品はほとんど姿を消してしまった。また、伝承の行事も少なくなったし、子供の遊びの内容も変わってしまった。コンピュータゲームなど友達との交わりの少ない遊びに変わってしまったのである。また、親が伝承行事や遊びを教えることもなくなった。

 私は、子供たちには遊びの経験、家族の一員としての生活の経験、ものづくりの経験など、できるだけ多くを楽しみ、遊びを通して友達との交わりを深めて貰いたいと思っている。原賀さんの本は、このためのお手本である。百を経験して、一つのルールを知ることが望ましいのである。よく一流に秀でた人の談話に、子供の頃のたくさんの経験が役に立ったとあるではないか。将来にわたって、オリジナリティに富んだ発想は経験なしでは浮かばない。

 遊びにも奥深さがある。おそらく、本書に紹介された遊びの一つを初めて経験した子供たちは、「楽しかった」と感想を述べるであろう。しかし、本書の果たす役割はもっとある。どこを工夫すればもっと楽しめるかヒントを与えてみよう。例えば、渓流の魚釣りをしたとしょう。どのような仕掛けをつくったのか(浮きの大きさ、おもりの大きさ、釣り糸の大きさなど)、流れの速さによって釣り方をどのように変えたか、えさは何が最も適していたか(本に紹介されている餌以外にも良いものがある)、どのような魚がどのような場所にいたか、釣れるのは一日のうちでどの時間帯であったか。一回の経験では答えることはできまい。子供たちは、さらに自然を観察し、理解を深め、釣りの楽しみを深めていくであろう。子供を夢中にさせる遊びを探究心をもって楽しむに違いない。紹介されているほかの遊びすべてに同じような奥深い楽しさがある。原賀さんが経験した遊びの中には、今では危険であるということで禁止しているものもある。しかし、それは大人の責任逃れのための規則であり、当時はそのような遊びでも人を傷つけることはなかったし、大きな怪我もなかった。遊び道具は、家庭にある工具(ノコギリや刃物)を使った。「肥後の守」は、当時は子供の必携の品であったが、今では危ないといっては親が禁止するご時世である。このナイフで怪我しても大怪我にはならなかった。どのように使えば危なくないか、使い込んで覚えるのである。ナイフを使って鉛筆削りのできる子供は今はどのくらいいるのだろう。

 紹介されているほとんどの遊びは、一人遊びではない。年齢の異なる子供たちが一緒になって遊ぶことは今では少なくなったようである。遊びが人格の形成に大きく関わっていることを考えると、昔の遊びの復活を本気で考えてよい。育ち盛りにコンピューター教育は必要ない。コンピューターはもっと成長してからでも十分習得できる。子供には体で遊ぶことが必要なのだ。そのような時間があったら、原賀さんの遊びの時間にしたらどうか。 

 本書は、原賀さんが経験した伝承行事・遊びなどが得意の絵で楽しく描写されている。懐かしい楽しさを追憶し、今の子供たちにもこのように自然と親しめと願うのは我々年寄りばかりではない。本書によって、自然を愛でるたくましい子供たちが育つことを切に願っている。

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 年末までは「年賀状」印刷でとても忙しく、なかなか日記を書く時間もありませんでした。それと、平成三年に発売した『ふるさと子供グラフティ』を6増刷(6万冊)していましたが、ほとんど在庫がなくなり、7増刷をしようかと思いましたが、当時はただ一気に体験思い出を描いたので、後になってみるとあちこち自分でも恥ずかしい様な絵や文章でした。そこで『新装版』を作り直すことにしました。だから、正月も何もあったものではなかったのです。「ふるさと子供新聞」の読者の皆様にも今しばらくごめんなさい。さらに1月はまたまたいろんな仕事や、遊び指導などで分刻みでした。

 そんな中ついに今日(2月22日発売)やっと新装版を売り出します。今日2月6日、完全データ化したのを印刷所(熊本県の下田印刷株式会社)に出稿しました。皆様よろしくご購読をお願いします。

ところで私にとって人生観までが変わった、第1作「グラフティ」の思い出を書いてみます。

  

 平成三年五月五日(こどもの日)に『ふるさと子供グラフティ』を発刊(自費出版)しました。文章、絵、編集レイアウト、写真植字、版下まですべて一人でして、「完全版下」で印刷所にたのんで印刷、製本をしたものです。

 私がちょうど四十歳の時です。すると、知人や色々な方々の口コミで自分でも驚くような反響とともに、どんどん広がっていきました。そして、本を購読された方々からよく「あなたは何歳ですか。」と聞かれ、「四十歳です」と答えると、「えっ、てっきり六十歳以上だと思いました。若い割にはよく昔のことを知っていますね。相当調べたでしょう」。 「いえいえ、すべて私の実体験だけです。でなければ楽しかったことが表現できません」。 「でも、あなたが四十歳ならつい最近の事じゃないですか?」

「はあ、私のふるさとはよそより随分遅くまで、まるで時計が止まっていたような長閑(のどか)なところだったのです」と実感を言っていました。

 

 その年の師走、熊日新聞紙上で「出版文化賞」のことと本年の作品応募締切が迫っていることを知りましたが、私はただ読み過ごしました。ところが妻(真知子)は、「応募しましょうよ」と言うのです。私は「こんな本が、取れるような賞じゃないよ。今まで町史とか歴史書などものすごい重厚な本ばかりのようだよ」。 「いいえ、私は絶対取れる気がする。どこに行けばいいのかしら?」。 「本気ね? 確か世安じゃないかな。」「世安ってどこ? 私分からないからあなたが行ってよ。」 「いやだよ、どうせ、そんなの取れるはずはないし、きみがタクシーででも行ってきたら。」と言いますと、「そうね。じゃあ、明日私が持って行くわ」と言って、翌日さっさと応募してきたのです。帰ってくるなり「きっと入賞するわ。受け付けてくれた文化部の方や近くにいた人達がみんな集まってきて『ワーこれはすごい本だ』と大絶賛だったのよ」と、もう受賞した気分でいました。

 熊日出版文化賞とは、その年に熊本県内で書籍等の出版・刊行され、応募された作品を、主に県内の文化・学識者による審査委員の方々が最終的に「三作品」が決定されるものです。

 平成四年一月、熊日関係者による「第一次選考」が行われ、二十点がノミネートされたのが朝刊に発表され、その中の一つに私の本も入っていました。それを見るなり妻は「ほら見てごらんなさいよ。やっぱり受賞するわよ」と言ったのですが、私は「異色だから、選ばれるかなとぼくも思っていたよ。しかし、三点にはならないさ」。

「じゃー、賭けましょうか? もし入賞したら副賞は十五万円だから全部私がもらうわよ」。 「あー、いいよ、いいよ」と笑っていました。

 最終審査の日がやって来ました。『受賞者には熊日の方から直接お知らせします』とのことだったので、妻はそわそわしていましたが、私はほとんど期待せず普段のように夕方を迎え、一階が事務所で二階が住居なのですが、もう仕事もやめて二階へ上がり、いつものように晩酌でもしていたとき、突然電話がかかってきました。

 妻は「ほら来た。熊日さんからよ」と電話をとりました。私は「まさか」と笑いました。妻は電話で「はい、おります。ありがとうございます。いま代わります」と、受話器を持って「やっぱり受賞したのよ」と興奮しています。私が電話を代わると「原賀さんですか。本日第十三回出版文化賞に決定いたしましたのでお知らせいたします。」「ほんとうですか。あ、ありがとうございます」。「明日の朝刊に受賞者の言葉として掲載いたしますので、ご感想をお願いします」。「えっ、あ、いやびっくりしています」。その後少し落ちついて今の気持ちを伝えました。翌日、熊日朝刊第一面に受賞した四作品の写真入りで大きく載っていました。

 

 平成四年(一九九二)二月十七日(上通の)熊本日日新聞本社ビル社長室で、第十三回出版文化賞授賞式が行われました。その年の受賞は私の「ふるさと子供グラフティ」と他に三作品でした。例年三作品だったのですが、最終審査の時点でどうしても私の作品が捨てがたく?異例の四作品となったとのこと。私達は夫婦で出席しました。というのは著者が私で、クリエイトノア自費出版の発行責任者は妻真知子だったからです。

 熊日社長・永野光哉氏より四組の受賞者に次々と表彰状と副賞(十五万円)が贈られ、その後それぞれ受賞者の挨拶。...私の番がきました。

「この度は、全く予期もしない大きな賞を賜り誠にありがとうございました。私は子供の頃から大変本が好きで色んな本を読んで人生の糧としてきました。だから自らも本や色んな文字媒体を作る印刷業をしています。そして子供の頃から本好きで多くの本を読むことが出来たのも、実は熊日新聞社様のおかげです。それは小学校四年生から中学三年まで新聞配達をさせて貰い、その給料のほとんどが漫画などの本代になったからです。それらの本のおかげで色んな知識を得て、思いっきり遊んだ体験談を本にしたものがこのように名誉ある賞まで賜り、私の人生においてこの上ない感謝の気持ちで一杯です。また幼い頃より両親がよく『新聞に載るような偉い人間にならんとでけん』と言っていましたので、今回の受賞で両親には大きな親孝行が出来ました。熊日新聞社並びに審査員の先生かたがたに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。最後に、ハリウッドのアカデミー賞受賞式風に言わせてもらいますが、この本の出版に際し最初から最後まで私のわがままを快く応援してくれた妻に、この賞を捧げます。」

と、お礼の言葉を言いますと、「アカデミー賞...」の部分で、審査員のお一人だった「安永蕗子」先生がクスッと微笑まれたのが目に入り、コチンコチンになっていた肩がすっとほぐれた気分になりました。

 

 その後審査員の先生方と昼食会のため上通りを歩いてホテルキャッスルに向かいました。途中、安永蕗子先生が「原賀さん、私は少し不満よ」。私は「はあ?」と恐る恐る言いますと、「男の子の遊びばかりじゃないの。」と言われるのです。私は「女の子とはほとんど遊んでいなく、描けなかったのです。」というと、先生は「じゃあ今度は奥さんから聞いたりして、女の子の遊びもいっぱい入れた続編を出してよ」と言われ、私はとっさに「はい、そうします」と答えてしまいました。結局この日から丁度一年後に今度はかなり女の子の遊びも入れた第二作「ふるさと子供ウィズダム」を発刊したのです。この時、安永蕗子先生が何も言わなかったら、第二作、第三作へと発刊することはなかったか、もしくはかなり後になったかも知れません。

 

 ホテルキャッスルで懇親会が始まり、食事しながら談笑していますと、田邉哲夫先生が「原賀さんの名前(姓)の由来は知っていますか?」と尋ねられました。「いいえ、元々百姓のようですから、明治の時苗字をつけて良いことになり、『原っぱ』にめでたい『賀』でも付けたんじゃないですか」と言いますと、「とんでもない。原賀という苗字は私が調べたところによると、もともと『ニベ』という有明海にいた『アカ魚』のことで、古くは『腹赤』といい、『ハラアカ』...『ハラーカ』...『ハラカ(ガ)』となったようですよ。それは、『延喜式』に書かれている、正月朝廷に三種(有明海のハラアカ、諏訪湖の氷、伊勢の暦)の貢ぎ物を届ける一つだったのです。諏訪湖の氷の厚さでその年の「冷・暖」を占い、アカ魚で今年の海の漁を占う。暦は当然のもの。ハラアカ(赤魚)を朝廷に届ける役目を任されていたのが「原賀一族」だったようですよ。室町時代にもその名は古文書に残されています。だから今の玉名の腹赤(村)辺りの出身なんだが、いつの頃か、誰か(領主)が、ハラアカを鯛と間違えて大失態をしたことで、あそこから離れたようです。今度、その詳しい資料を送ってあげるから研究してみたら。」と教えられたのです。私は、この瞬間から自分の先祖の血に対し大きな誇りを持ち、何か「原賀」の姓で生きる事へ大きな喜びを感じました。数日後、田邉先生からいろんな資料が送られてきました。

 

 また、審査員のお一人だった西岡鐵夫先生が受賞決定翌日の朝刊で「グラフティ」の書評を書かれました。初版五千部が約三ヶ月で完売し、第二刷りのとき、西岡先生にお電話をしてこのお褒めの言葉(文)を「帯」に使いたいとお願いしますと、先生は即快諾されました。あれから六刷り(四万部)になっていますが今も先生のお褒めの言葉を使わせていただいています。

 

 さらにその祝賀会の帰りに、早速熊日新聞の月一回カラーコラム「わんぱく」という子供の遊びコーナーの仕事を依頼され、一年間連載することになりました。そのように、この熊日新聞社第十三回出版文化賞受賞は、その後の私の人生に大きな影響を与えたのです。それから、熊日新聞を始め、テレビやラジオ、その他のマスコミなどからも多数取材などがあり、昔遊びの実習や講演などにもどんどん出かけるようになりました。

 また熊本県庁「県民生活総室」からも「青少年健全育成」などのパンフレットや県内の小中学生八万人へ無料配布された「子供カレンダー」の制作など(すべて私のイラストによるもの)も依頼され、自分で「私の人生はなんでもかんでもどうしてこんなに順調なのか」、今までずっとまるで「くじ」に当たり続けてきたように楽しい人生だったのはなぜなのか不思議でした。

 しかしそれは、いつも「自分で考え決断し、行動」してきたからだと思いました。要するに全て「自己判断」と「自己責任・自己成果」主義だからです。その性格を作ったのが子供時代から何でも「遊び心」に変えてきたことだと自分では確信しているのです。

 

これの続きはまた後に書きます。要は自分の運命は自分で作っていくことが出来ると思っています。

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