2008年12月アーカイブ

 年末になると門松を作るのが楽しみでした。門松が玄関にそろうと正月気分が最高潮になるのです。門松は大小ありましたが小学時代からよく作りました。

 

 手頃な竹、松の葉枝、笹、南天(難を転ずるの語呂合わせ)などを適当な量切ってきます。そして、バケツや桶などの容器に土を入れて飾るだけですが、神社やお店などに飾ってある立派な門松を参考にしてそれなりに格好(?)よく作ります。

 三本の竹を斜めにスパッと切ったのを中央に立ててありますが、あれはどうやって切ったのだろうか不思議でした。

 チャンバラ映画で竹林での斬り合いがあると大きな竹をスパッと切ったりしますので、門松もよく切れる鉈(なた)などを使って一発で切るのかと思いました。

 しかしあんな大きな竹を正確な角度で、一発で切れるはずがありません。

 私はノコギリで切って、切り口をカンナなどできれいにする方法にしました。

 そして、完全な決まりごとではないようですが、切り口に「節目」が出るようにします。年の節目を表すのだそうです。

 三本の竹を立てたあとは、松などを体裁良く飾り付け、出来上がった門松を玄関の両脇に置き、新年を迎えます。

  門松作り.jpg門松は玄関先を清め、悪い鬼や邪気が家に入らないようにして、新年の神様をお招きするものと聞かされていました。

 正月に門松を飾る風習は約1000年ほど前の平安時代から伝わるもので、「松は千歳を契り、竹は万代を契る」と言われ、神様が永遠に宿る「依代(よりしろ)」として松と竹の組み合わせが使われるそうです。

 門松を29日に立てるのを「九松」(苦待つ)と言って嫌われ、31日は「一夜飾り」で神様を迎えるのに一日だけでは真心がないとされていますので、28日までに立てるようにします。あとは楽しいお正月を「松(待つ)」だけです。

 新年を迎え元日から7日までを「松の内」と言い、8日に片付けます。幼い頃、このような数々の日本独特の風習が大好きで、それらをひとつずつ励行することで必ず幸せになれると信じていました。なぜなら大昔からみんなが大切に守ってきたからです。

 今も時期になると植木鉢などでミニ門松を作っています。

 そこで、12月7日(日)は、山鹿市平小城(平山温泉)活性化協議会主催で私たち夫婦(妻、真知子)と子供たちとミニ門松作りをしました。

斜め切り.jpg節があるところを鋸で斜めに切っているところ。

3本切りますが、1本はちょっと長くします。

その3本を(長いのを中心にして)紐で縛ります。

 

 

 

 

 

門松結び.jpg

 

プラスチックの植木鉢などに土を入れて

竹を埋め込み、まわりに『松』、ナンテン、笹 などを体裁よく埋め込むと出来上がり。

門松.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

みんながいっしょうけんめい門松を作っている間に一人ずつ交代で似顔絵を描きました。

 

 

似顔絵描き.jpg

 

 

 

 

ミニ門松も完成、みんなの似顔絵も出来上がり。

 

 

ミニ門松完成.jpg 似顔絵も完成.jpg

 今、日本は『100年に一度の不況(?)』とか言われていますが、私はそんなにひどいのかと思ってしまいます。私は今58歳ですが、40数年前の農山村で、子供(小学生)時代、携帯電話どころではなく家にも電話はなく、テレビも冷蔵庫も、石油ストーブ、エアコンもなく、まして村には病院は1つもなく、小さな診療所が2、3軒ある程度でしたので、自己管理が大切でした。

 毎日の食事は、朝は麦3、米7の麦ごはんと味噌汁に漬物、梅干ぐらい。ただし我が家で鶏を飼っていたので生みたての生卵かけごはんはよく食べました。

昼は、(もうすでに)学校給食でしたが、実においしくないパン、脱脂粉乳ミルク、野菜などの汁物おかずだけでした。ほとんどずるして残していました。(先生に見つからないように)

 学校から帰るとおなかはぺこぺこで、台所へ飛んでいくと、もちろん『おやつ』なんて言葉もなく、かまど(くど)に乗った『羽釜』(炊飯なべ)のふたを開けてみると、底のほうに『おこげ』が少しこびりついていたら最高に幸せです。それを粗塩でおにぎりしてほおばり(たまにカラ芋をふかしてあった)、みんながよく集まって遊んでいる場所に直行です。

 夕方まで夢中になって遊び、5時頃になるとみんな家に帰り、『風呂の水汲み』や『牛の餌やり』などのお手伝いをしていると、両親が野良仕事から帰ってきて、母は夕食の支度をします。

 夕食はさすがに少しはいいもので、麦ごはんは同じですがおかずには『塩サンマ』や『塩サバ』などの魚介類。または『ちくわ』『てんぷら(角天)』と野菜の煮物。サバなどの缶詰、などがあればかなりのご馳走でした。好き嫌いをいう余裕はありません。おなかペコペコですから。

 そして、お風呂。家族みんなでコタツ(掘りコタツ=木炭)に入っておしゃべりしたり、ラジオを聴いたりしながら、私はコタツでちょっと勉強していると、そろそろ9時。子供は自分で布団を強いて、床に就きます。

 朝は6時には起き、布団を上げて、顔を洗って着替えていると、母が朝食をコタツに運んできます。

いつもと同じ朝ごはんを済ませ、約3キロほどの道のりを約40分ほどかけて小学校へ着きます。

 これがほぼ毎日続く生活でした。でもみんないつも、おなかがよじれるほど笑っていました。

 現在の子供たちからしたら、まるで『原始時代』の暮らしのように見えるかもしれません。しかし、現実にわずか40年ほど前の日本のかなりの地域ではそれが常識だったのです。

 その経験をしてきた私たちは、都会のクリスマスイルミネーションやデパートの『おせち料理』、クリスマス商戦などを見ていると、どうしても『100年に一度の大不況』には見えないのです。

 私も決して余裕はないのですが、あの頃に比べたら、まだまだ贅沢な感じがしてならず、結構気楽な気分です。

ただし、「心」はあの頃のほうがもっともっと贅沢で満たされていたような気がします。

 

クリスマス.jpg クリスマス.jpg 

12月24日はクリスマス・イブ(前夜祭)、25日はイエス・キリストの誕生祝日『クリスマスの日』ということで、私達が小学生の頃も楽しみな『歳時記』の一つだった。そしてだいたいこの日が二学期終了で「冬休み」(正月休み)になった。

 上の絵には描いているが、当時(昭和30年代)はケーキや豪華な料理を食べるなど特別なことは何もしなかった。せいぜい手作りの『ホットケーキ』や『だご焼き』に蜂蜜とか砂糖をかけて食べたりしたことがある程度だ。

 ただし毎年、大きな楽しみだったのが『クリスマス・ツリー作り』だった。当日の二、三日前、裏山に行き、本当の『樅の木』はなかったので、小さな杉またはヒマラヤ杉を、父に許しをもらって一本切ってきたり、根から掘ってきて、バケツなどに鉢植えにする。

 雪飾りには古くなった座布団などの綿を付け、『七夕』飾りと同じような感じで、色紙などで工作物を作りいろいろと飾り付けをした。 

 そしてこたつの食卓に『ろうそく』を灯し、しばらく電気を消し、『清しこの夜』を歌ったりした思い出がある。

 親戚のおばさんがハワイ移民者だったので、この頃になるとたくさんのチョコレートやきれいな『クリスマス・カード』が送ってくるのも楽しみだった。その手紙で欧米では正月よりクリスマスのほうが盛大だとのこと。

 当時、親からプレゼントなどもらった記憶はないし、またサンタクロースもあまり実感がなく、日本の伝統のお祭りのような盛り上がりはなかった。私達子供もほとんどが『キリスト教』徒ではなかったのだが、ムードは大好きだった。

 日本人の場合、農家にはどこにも「神棚」と「仏壇」があり、正月はお宮、お盆はお寺とどちらにも参るし、いろんな自然の神(八百万の神)多信仰であり、キリストをもその神々のひとつとしていた感覚があったのではないだろうかと思っている。

 クリスマスが終わるともうすぐ、日本の最大楽しみな『お正月』がやってくる。

昔、あるところに、一人の若い石工がおりました。毎日毎日、石切場に行き、『トンチン、トンチン』と石を切って、汗を流していました。

 ある日のこと、昼飯をすませた石工は、ちょっと一服と横になりながら、空をながめ、ひとりごとを言いました。

「オレは、朝早くから夕方は遅くまで、手にはマメをいっぱい作って働いているのに、おてんとうさん(太陽)はただぴかぴか照らしていればいいし、楽なもんだよなー」......

「そうだ、オレも明日からおてんとうさんの仕事をしよう。」と、石工は次の日から太陽の仕事をすることにしました。

01石工.jpg 

朝起きて、夕方山にかくれるまで、ただピカピカ照らすだけの気楽な仕事が続きました。

「こりゃー、楽なもんだ。朝はちょっとねむいが、あとはなーんもきつくない」

 ところがある日、どうしたことかあたりが真っ黒になり何も見えません。石工の太陽は、「何だこれは、真っ暗で照らせんじゃないか」と、目の前をさわってみると、それは真っ黒な『雨雲』だったのです。

 そして下界を真っ暗にすると、激しい雨を降らせ始めたのです。しばらくすると、雨をやめ今度は『いわし雲』に姿を変え、すいすいと大空を泳ぎ、次はモクモクと大きな『入道雲』にと姿を変えて楽しんでいます。

  02雨雲.jpgそれを見ていた石工の太陽は、

「こりゃ、雲の方がおもしろそうだ。明日から雲の仕事をしよう。」といって、次の日から雲になりました。

03雲.jpg

 

 石工の雲は、あちこちに行っては、真っ黒になったり、気ままに形を変えたりして大空にゆうゆうと浮かんで、楽しく遊んで暮らしました。

 するとある日、突然ピューッととんでもないところへ吹き飛ばされてしまいました。

04.1風.jpg

「なんだなんだ、こんなはずじゃなかった。雲より強くて、いい仕事があったのか?」と、よく見ると、それは『風』でした。

「これはいかん、こりゃ風の方が良い。すぐにでも風の仕事をしよう」と、今度は大きな風になってあちこち吹き飛ばしながら遊んでまわりました。

05風.jpg 

ところが、どうしたことか、石工の風は吹けども吹けどもびくともしないものに出会ったのです。

「こりゃ、一体なんだ」と、まわりを見渡すと、それは田んぼの『土手(どて)』でした。

「なるほど、いろいろと仕事を変えてきたが、土手はいい。ただデンと座って何もしなくてよい。これは一番いい仕事だ。明日から土手の仕事をしよう」と、今度は大きな土手になって、ずいぶん長い間ゴロンと寝そべって暮らしました。

06土手.jpg 

そんなある日、腰のあたりがむずむずしてきました。

「こりゃどういうことだ」と、石工の土手はよく見ると、なんと『モグラ』が穴を掘っていました。

 長いことゴロンと寝ていたので気がつかなかったのですが、あちこち穴がいくつも掘られていたのです。

 

07もぐら.jpg

「こりゃ、どんな大きな土手でもモグラには勝てんな。土手より強いものがいたとは、よし明日からモグラをやろう」と決めました。

 それからあちこちの土手を掘りまくり、田んぼの水を流してまわりました。そしてお百姓さんたちが困るのを見て「ゆかい、ゆかい」と笑って暮らしました。

 

08もぐら.jpg 

ある日のこと、石工のモグラはいつものように、せっせと穴を掘り進んでいたところ、どんなに掘っても掘っても、ツメが痛くて掘れません。とうとう血が出てきました。

 

09もぐら.jpg

「なんだ? モグラに掘れないものがあるのか。今までずーっと、楽な仕事、強いものへと仕事を変えてきたのに、まだ強いものがいたのか?」と、よーくさわってみたら、それは『岩』でした。

「そうか、岩が一番強いのだ。」といって、今度は岩になりました。

 

10岩.jpg

「岩はただデーンと寝ているだけでいいし、だれにも負けない。なんで、最初からこの仕事を選ばなかったんだろう。オレはもともと石工だったのだから目の前にあったんだ。」

  何年かたちました。ある日のこと、トンチンカン、トンチンカンと、ノミとげんのうで頭を削るものがいます。

「痛い、痛い。なんだ、岩より強いものがいたのか?」頭が少しずつ削られていく激痛の中で上をよく見たら、それは『石工』でした。

 

11岩.jpg 

 

 

「えっ? 今までいろいろ仕事を変えてきたが、最初にオレがやっていた石工の仕事が一番強かったのか。なーんだ、そうだったのか、だったらもう一度石工の仕事にもどろう」と思いました。

 ところが、そう思っているうちにも岩は、みるみる間に削られていき、もう次の仕事につくことはできない体になってしまったのです。

 

12最後.jpg 

岩を削っている石工たちは、永い間その仕事を続けてきたのでみんなものすごい熟練した技術を身に付けていました。あっという間もなく岩は削られてしまい、「石工の岩」はバラバラにいろんなところへと運ばれていきました。     (おわり)

 年末の頃になると、よく母と納豆作りをしました。それは餅につけて食べるととても美味しいので、正月用でもありました。もちろんごはんでも大好きでした。また晩秋は稲刈り後の新イネ藁(わら)がたくさんあったのです。納豆は藁の中にいる自然の「菌」が作用して出来上がるので、『藁苞(わらづと)』という容器を作ります。 01つと.jpgこれは大体子供の仕事で、私はつと作りが大好きでした。母が「こんなに作っても食べきれないよ」というほどでした。それは、藁づとに大豆を入れておくだけで美味しい食べ物に変わるのが不思議でたまらなく、何か魔法のようだったからです。まして、大豆は自家栽培、藁もほとんどタダ(無料)で、できる『大ごちそう』(おかず)なので夢中になったのは当然です。 02わら.jpg

 

 

 

 

                          (まず藁をよくすごく)

 

 

04.jpg 04,2.jpg

 

 

 

 

 

 

06,4.jpg つと2.jpg 04納豆ツト.jpg 09大豆入れ.jpg

 

 

 

 

 

 

そして、母がたくさんのゆでた大豆をつとに詰め、納屋の藁束の中に埋め込むと、「早くできないかなー」と待ちきれないほどでした。

(端を切るのははさみで切ってもいい)

 

 

 

 

三、四日経ち、父に「もうねばっとるどか」と聞きますと「まだまだ」と言います。その後食事時その繰り返しで、約一週間した頃、母が「隆ちゃん、納豆づとを見てきて、粘っとるなら一本取ってきてよ」と言われ、飛ぶように納屋に行き、ドキドキ期待しながら、つとを開け、指先で一粒つまんでみますと、ネバーっと糸を引き、納豆独特の香りがしています。 10上がり.jpg「やったー出来ている」と急いで台所に持って帰り、できたてを大きな器に出し、塩を入れ一生懸命かき混ぜ、家族みんなでおいしく食べました。

 

 

11上がり2.jpg

 

 

 

 

 

 

 

そして母は「ネバ納豆をいっぱい食べると、勉強も人生も何でん、粘り強くなるとよ」と言いますので、私も「ナット喰う(納得)」と言い、家族で大笑いしました。
 近年、納豆は栄養価の高い『発酵食品(ナットーキナーゼ)』として注目を浴び、各種が工場生産され、毎日美味しく食べていますが、当時の自家製納豆の味は忘れられません。


12月に入り、いよいよ冬って感じです。寒さのさることながら、
仕事の方も毎年恒例の年賀状のシーズンを迎えました。
年賀状の他にも、オリジナルのカレンダーも作っているので
この時期は忙しさのピークを迎えています。

ホームページを開設してから、ブログの方もやらないとと思ってはいるのですが、
忙殺の日々になかなか進まずじまいです。
1月から徐々に書き始めたいと考えています。

書いてみたいことはたくさんありますが、
不定期連載で「おじいさんの昔話」、「今の時期の昔遊び」を書いていこうと企画中です。
どうぞ、お楽しみに。

先日、熊本県北の山鹿市平小城にて5回にわたって「昔遊び」を子供たちに教えてきました。
その様子を紹介していただいていますので、ぜひご覧ください。

◆平小城活性化協議会ホームページ

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